春の気配
いつものように玄関の扉を開いてみると、そこには春の気配があった。
今日は二月最後の一日だった。
いつもに比べて風が強く吹いていたが、もう昨日のように冷たくはなかった。
その風はあちこちから小さな春を集めて、街へと運んでいた。
きっと数日のうちに、街は春でいっぱいになるに違いない。
鼻がムズムズとして、落ち着かなかった。
私は寒さに対して鈍感であるから、キンキンに冷えた日にも手をほっぽり出してあるいているのだが、そのせいか、いつの間にか指は霜焼けだらけになっていた。
心と体は必ずしも結びついているわけではないのだった。
そんな指も春になれば元通り、直につやつやの手が返ってくるに違いなかった。
明日から三月だ、と思い浮かべてみたら、丁度四年前の三月の始めに煙草を辞めた事を思い出した。
あれ以来、私は一本たりとも煙草を口にしていない。
友人達はしばしばその事で私を「意志の強い人間」だと褒め称えてくれる。
私も自分の意思が強いものだということに、何の疑いもなかった。
煙草を辞めると言って辞められないのは意志が弱いからなのであって、故に辞めると言ってそれっきりの私は即ち「意志が強い」、そう思っていたのである。
だが今日の私には、私は本当に意思が強いのかどうか、そのことが疑問に思えた。
煙草を辞めると言った後、煙草が吸いたいという衝動に駆られ、それでも尚その衝動に支配されずに煙草を口にしなかったのであれば、それは意思が強いと言えるだろう。
だが思い返してみると、私はぷつりと糸が切れたように唐突に煙草を辞め、その後喫茶店でも酒の席でも吸いたいという衝動に駆られることもなかったのである。
吸う気が起こらなかったから吸わなかったのであって、そこには衝動に対する抵抗があったわけでも、誘惑に対する反発があったわけでもなかった。
それは「意志の強さ」云々というよりも、ただ「興味を失ってしまった」という方が正しい気がする。
煙草に限らず私は時折家にあるもの、それは服であったり調度品の類を、突然捨ててしまうことがある。
その際には何の抵抗もなく、ただ機械的にゴミ箱へと運ぶ。
そこにはなんの躊躇もない。
それらの物や物事に対する拘泥する気持ちが殆ど無いのである。
そこで私が思い至ったことは、私には著しく執着の心が欠如しているのではないかということである。
人には多かれ少なかれ、物事に対して拭い切れぬ思い入れというものがあるもので、それによってそのものが切り捨て難いものとなる。
そしてそれが固執や未練、郷愁の因子となる。
執着心が強過ぎることは多くの場合においては好ましくないが、欠落していることは果たしてどうなのであろうか。
皆目見当もつかない。
過去を思い返した時、あの時にああしておけばよかっただとか、あの頃に戻ってやり直したいなんて思うこともないので、常に「ははっ、今が一番オモロ」となる。
タイムマシーンが発明されても、きっと昔の自分に会いにゆくことはないだろう。
後悔とは過去への執着なのである。
また私は、あまり緊張をしないということを口にするが、これもまた執着心の欠落によって引き起こされる結果であるのかもしれなかった。
自分自身に対する執着心もないものだから、何があったとしてもその結果を受け入れられることができ、だからこそ緊張する必要がないのかもしれないということである。
もし私が本当に意思が強い人間であれば、今でもお風呂上がりのストレッチを続けているはずであるし、一週間分と決めて買いだめしておいたお菓子を二日で食べてしまうことはないだろうし、何より「長ったらしくない短いものを書く」と言って始めたこのブログが、毎度膨大な分量となるはずがない。
私はただ執着の心が欠落した人間なのかもしれなかった。
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