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なぜペトロは「イエスを知らない」と言ったのだろう【マルコによる福音書14:66-72】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は教会学校動画の原稿を再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところがあるかと思います。動画版は↓のリンクからどうぞ〕

聖書はどのようにして書かれたのか

聖書というのは、たくさんの文書を一冊にまとめたものです。
千葉バプテスト教会で使っている新共同訳聖書の場合、目次を見てみると、旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻、あわせて66巻の文書が入ってることがわかります。
39巻と27巻なので、3×9=27っておぼえると、おぼえやすいです。

(教会によっては、旧約聖書にもう少し文書が多い聖書を使っている教会もありますが、そこは今回は話を省略します。)

これら、旧約新約あわせて66巻の文書は、人間が筆記用具を使って文字で書いたわけです。
それで、「この文書はどの人間が書いたのか」をとても大事にするクリスチャンもいます。
たとえば「イザヤ書というのは実はイザヤだけじゃなくて、何人もの人によって書かれた」とか。
新約聖書で差出人がパウロと名乗っている「ナントカの手紙」について、「これはパウロが書いたのではなくて、パウロの弟子か誰かがパウロの名前を使って書いたものだ」とか。
そういうところにとてもこだわる、そういう聖書の受け取り方をするクリスチャンたちもいる。

 ただキリスト教では伝統的に、聖書は神様からの言葉だと受け取ってきました。次のように書かれているからです。

聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。

テモテへの手紙二3:16(聖書協会共同訳)

たとえば「マタイによる福音書」というのも、「12弟子のマタイが書いたのか、ほかの誰かが書いたのか」という前に、「神の霊感によるものだよね」という受け取り方です。 

ただそうすると、マタイは「神様からの言葉」をどのように書いたのか、ということがまた謎になるわけです。

たとえば、人間がスマホやパソコンで文章を書くように、神様はマタイをあやつって文章を書かせただけだ、という意見もあります。書かれている一語一語が神様からのもので、それを書いたマタイがどんな人間か、どんな信仰か、どんな性格か、ということは関係ないという意見です(言語霊感説または逐語霊感説、機械的霊感説など)
この場合、マタイによる福音書を書いたのがマタイなのかどうなのかということは何の意味もないですね。

 そうじゃないんだと。聖書が神様からの言葉だというのは、神様がぼくたちに何を伝えたいかという、神様の思想、神様の思いや考えを、神様が人間のキャラクターを使って伝えているんだ、という考え方もあります(思想霊感説、有機的霊感説など)。
たとえばマタイによる福音書は、神様がマタイのキャラクターをとおして伝えている言葉なんだと。マタイがどんな人で、どんな性格でどんなセンスで、どんな職業の出身でどんな経験があって、イエス様との生活をとおしてどのような信仰を持っていたか、そうしたことを全部ひっくるめてマタイという人物をとおして、神様の思想が伝えられた、という考え方です。

 どの説が正解かなんていうのは文字通り「神のみぞ知る」なんだけど、ぼくは二番目の「神様は人間のキャラクターを通して、神様の思いや考えを伝えた」という考え方の方が納得できるかな。

マルコによる福音書の背景

教会学校では今週まで、マルコによる福音書を読んできました。
この文書の中には、マルコがこれを書きましたということは書かれてない。12弟子の中にもマルコなんていう名前はないよね。

じゃあマルコというのは何者かというと、2世紀頃には教会で次のように伝えられていたそうです。エウセビオスという人が書いた『教会史』の中に引用されている、2世紀前半の主教パピアスの証言です。

マルコはペテロの通訳となり、彼が思い起こすことをみな正確に書いたが、…後になってペテロの弟子になったからである。ペテロは必要に応じて教えをなしたが、…彼(マルコ)は自分が(ペテロから)聞いたことを何一つ書き漏らすことがないよう、また何一つ誤った記述をしないよう注意したからである。

いのちのことば社『新聖書注解 新約1』

ここに出てくるマルコというのは、使徒言行録やペトロの手紙に出てくるマルコだろう、と考えられています。
そうやってマルコをとおして書かれた主イエスのできごと、福音のできごとは、マルコや、マルコに伝えたペトロをとおして神様がからぼくたちに伝えている神様の思想、思いや考えだ、というふうにぼくも思っています。

さて、そうだとすると、という話なんだけど。

主イエスを否むペトロ

今日はマルコによる福音書の14章、イエス様の十字架の直前にペトロが「イエスなんか知らない」と3回も言ってしまった場面です。 

イエス様は最後の晩餐の席で、これからおきることについて弟子たちに告げた時、ペトロにこう言っています。

はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。

マルコによる福音書14:30

 そのあと、ゲツセマネでつかまったイエス様が裁判をうけるために大祭司の官邸につれていかれたとき、ペトロは大祭司の官邸の中庭まで入り込んでいました。

人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。

マルコによる福音書14:53-54

この「中庭」というのがポイントです。外からちょっと「庭」に入ってみたというんじゃなくて、建物の中にある「中庭」までペトロは忍び込んでいたということです。

ペトロはたぶん、イエス様をなんとかして助け出そうと考えたんだろうね。
前にも話したけれど、ペトロは最初の先生だった洗礼者ヨハネを領主ヘロデに処刑されています。イエス先生まで殺されてたまるかと思っていました。それでゲツセマネでは刀を振るって戦ったくらいです。

ところがここでペトロは、イエス様から言われていた通りに、三回も「イエスなんか知らない」と言ってしまう。
ここまで来てペトロは怖くなったんだろうか。ぼくはそうじゃないと思うんだ。ちょっと見てみよう。

最初は、大祭司に使ている女中、今でいったらメイドさんみたいなものかな、そういう女の人がペトロに、
「あなた、つかまったイエスと一緒にいた人だよね」と言ったんだ。
するとペトロは「なんのこと言ってるかわかんねぇし」と言って、中庭の出口のほうへ行こうとした。

すると女の人はまわりにいた人に「この人、イエスの仲間だよ」と言った。そこでペトロはまた、それは違うって打ち消した。

すると周りにいた人たちも、「お前は確かにイエスの仲間だ。言葉がガリラヤ鉛だから間違いない」と言った。
それに対してペトロは、、、

すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。

マルコによる福音書14:71

そのとき鶏が2回目に鳴いて、それを聞いたペトロはイエス様の言葉を思い出したんだ。イエス様に言われた通り、鶏が2度鳴く前に「イエス様を知らない」と3度も言ってしまったって。 

ペトロにとってみると、イエス様を絶対に助けなきゃと思っていたのなら、こんなところでバレるわけにはいかなかっただろうね。
「イエスの仲間だろ」と言われて「ああそうだ」と言ったら、「なんでこんなところにいるんだ。さてはイエスを助けに来たな。おい、こいつも捕まえろ」ってなって、イエス様救出大作戦はここで失敗。イエス様を助けたいなら、絶対にここでばれるわけにいかないんだ。

それに、最初から「おいお前、イエスの弟子だな」と言われてたら、ペトロは名乗ったかもしれない。「ああそうだ、俺もイエス様と一緒に十字架で殺せ!俺は死ぬまでイエス様と一緒なんだ!」って。
けど、「もしかしてあんた、イエスと一緒にいた人じゃないかい?」くらいに聞かれてさ。「お前、ガリラヤなまりだから、イエスと一緒にガリラヤから来たんだろ」とかさ。
それだったら「まだこの場はごまかせる。イエス様を助けに行くためにも、この場はなんとかごまかさなきゃ」って思うよね。

ペトロの気持ち

あの中庭で「イエスなんか知らない」と言ったときのペトロの気持ちは、けして「逃げた」というのではなくて、イエス様を助けるためだったのだと思う。

でも、あとでペトロがこのできごとを弟子のマルコに教えたときの、ペトロの気持ちはどうだろう。
「わたしは主を助けるために、主を知らないと言わなければならなかったんだ」なんて言えないよね、きっと。
それよりも「私はあのとき3度も、主を知らないと言ってしまった」という気持ちだったんじゃないかな。

聖書の言葉が「言語霊感説」で書かれているなら、書かれていることだけを考える読み方でもいいかもしれない。
でも「思想霊感説」なら、それを書いた人、それを語った人はどう思っていたのか、ということも考える余地があるんじゃないだろうか。
たとえば、ゲツセマネで弟子たちがみんなイエス様を見捨てて逃げ去ったと言われています。
でも実際には、マルコとマタイだけが「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と書いている。
ルカは、弟子たちが逃げたとは書いていない。イエス様が連れていかれた時、『ペトロは遠く離れて従った』と書いている。
ヨハネも、弟子たちが逃げたとは書いていない。というかイエス様が人々に「わたしをつかまえに来たなら、この弟子たちは去らせなさい」と言ってるんだ。

 福音書は同じ出来事をそれぞれ違った伝え方をしてるけど、誰の書き方が正しいかということは考えてもしかたない。だってそれは「誰の書き方が間違ってるか」ということになるからね。
それでぼくはこう思うんだ。
実際には弟子たちは逃げたのではなかった。逃げようと思ってもいなかったかもしれない。
でもイエス様が弟子たちを去らせろと言っている。イエス先生にそう言われたら、もう従うしかない。それで弟子たちはその場を離れ去った。でもペトロは、離れて従っていった。

でも、そうだとして、このできごとをマルコに伝えたときのペトロは、
「そうはいっても、俺が主を離れて逃げたのは事実なんだよ。『一緒に死ななければならないとしてもイエス先生と一緒に』なんて言ってた俺が、さ」
という気持ちがあったんじゃないだろうか。
そして、神様は、マルコをとおして福音書を書くために、そういう気持ちを持っているペトロをそのまま用いたんじゃないだろうか。

だから、マルコは(ペトロから教えられたとおりに)「逃げた」と書いた。
マタイは12弟子のひとりで、ゲツセマネでは自分もイエス様に言われて立ち去ったから、やっぱり「逃げた」と書いた。
ルカは自分で取材した結果、逃げたのではないと思った。
というふうに、それぞれの福音書の伝え方が違ってきてるんじゃないかな。

今、すっごく想像しすぎて話してるからね。聖書はこういう読み方をするのが正しいというじゃなくて、のぶおリーダーというひとりのクリスチャンはこういう読み方をしてるんだな、くらいに聞いてね。

ペトロはなぜ主を否んだ?

ペトロが三度「イエスを知らない」と言ったのは、自分が助かりたいためなんてありえないよね。

ルカによる福音書は、最後の晩餐でイエス様がこういったと伝えています。

シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ルカ22:31-32

「シモン」はペトロの本名ね。
で、サタンつまり悪魔は、イエス様の十字架を邪魔しようとしたこともあったけど、そのあとユダに入ってイエス様を裏切らせたということは作戦を変更してるよね。十字架を止めることはできないとわかって、弟子たちをつぶすことにしたんでしょう。
そのためにペトロは、「おれはイエス先生を裏切ってしまった」という思いに苦しめられることになった。

でもイエス様は、ペトロがそうなるのをわかっていて、ペトロの信仰がなくならないように祈っていたんだ。

ペトロが3回目に「イエスなんか知らない」といったときもね、ペトロが誓い始めたときに鶏が鳴いたって、書いてある。誓いの言葉を言い終わってしまう前にペトロを止めたんだよ。
そして復活したイエス様に会って立ち直ったペトロは、使徒たちのリーダーとなって兄弟たちを力づけていくんだ。

主はペトロも私たちも愛している

ペトロは完ぺきじゃなかった。失敗もたくさんした。
でもペトロはイエス様に愛されて、立ち直って大きな働きをすることになった。

ぼくたちも完璧じゃあないよね。小さな失敗はたくさんするし、大きな失敗をすることもある。
でもぼくたちもペトロと同じようにイエス様に愛されている。

大丈夫。『神があなたがたのことを心配してくださるからです』って書いてあるから(ペトロの手紙第一5:7[新改訳2017])。
 ペトロが立ち直るように祈ったイエス様が、神がぼくたちのことを心配して、ペトロのように立ち直らせてくれる。だから大丈夫なんだって忘れないでください。

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