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主が望んでいる人とは【詩編147】【やさしい聖書のお話】


〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の原稿を再構成したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕

年末です

来週の11月28日から、クリスマスを待ち望む待降節、アドベントに入ります。
伝統的に教会の一年は、主の訪れを待ち望む待降節から始まります。だから今日は、去年の待降節から始まった一年の最後の日曜日です。

というわけで、今年一年ありがとうございました。
(たぶん12月の最後にも同じ挨拶をしそうですがw)

ハレルの詩編

「ハレルヤ」の意味はわかりますか?

「ハーレール」の意味が「ほめたたえよう」で、
「ヤハ」は「ヤハウェ」の短縮形(縮めた言い方)で、あわせて
「ハレルヤ」は「ヤハウェをほめたたえよう」という意味になります。

ヤハウェを日本語訳聖書では「主」と訳しているので、ハレルヤは「主をほめたたえよう」でもあってます。でも「神をほめたたえよう」ではありません。それだと「ハレルエル」になります。
イエス様にむかって「ハレルヤ」と賛美するのは、イエス様は神様だからです。「父なる神、キリストであるイエス、聖霊」が「唯一の神」だということを三位一体といいますが、ヤハウェというのは「三位一体である方」の名前なのです。(ヤハウェは「父なる神」の名だという考えもあるのだけど、イエス様は父をヤハウェと呼んでいません)

で、詩編147編は、最初の言葉がハレルヤで、最後の言葉もハレルヤです。詩編147編だけでなく、詩編146から最後の詩編150までの5曲とも、ハレルヤで始まってハレルヤで終わっていて、まとめて「ハレル詩編」と呼ばれています。

150曲ある詩編の、最後の5曲がハレル詩編。「ラスト、盛り上がって賛美するぜ!」って感じしません?

では147編を読んでみましょう。

詩編147編

今回も、「主」を「ヤハウェ」に直します。

ハレルヤ
わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく
神への賛美はいかに美しく快いことか。
主(ヤハウェ)はエルサレムを再建し
イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。 
打ち砕かれた心の人々を癒し
その傷を包んでくださる

主(ヤハウェ)は星に数を定め
それぞれに呼び名をお与えになる。
わたしたちの主(アドナイ)は大いなる方、御力は強く
英知の御業は数知れない。
主(ヤハウェ)は貧しい人々を励まし
逆らう者を地に倒される。 どちらの者にも主はともにいる。
感謝の献げ物をささげて主(ヤハウェ)に歌え。
竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。

主(ヤハウェ)は天を雲で覆い、大地のために雨を備え
山々に草を芽生えさせられる。
獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば
食べ物をお与えになる。

主(ヤハウェ)は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
主(ヤハウェ)が望まれるのは主(彼)を畏れる人
主(彼)の慈しみを待ち望む人。


エルサレムよ、主(ヤハウェ)をほめたたえよ
シオンよ、あなたの神を賛美せよ。
主(ヤハウェ)はあなたの城門のかんぬきを堅固にし
あなたの中に住む子らを祝福してくださる
あなたの国境に平和を置き
あなたを最良の麦に飽かせてくださる

主(ヤハウェ)は仰せを地に遣わされる。
御言葉は速やかに走る。
羊の毛のような雪を降らせ
灰のような霜をまき散らし
氷塊をパン屑のように投げられる。
誰がその冷たさに耐ええよう。
御言葉を遣わされれば、それは溶け
息を吹きかけられれば、流れる水となる。

主(ヤハウェ)はヤコブに御言葉を
イスラエルに掟と裁きを告げられる。
どの国に対しても
このように計らわれたことはない。
彼らは主(ヤハウェ)の裁きを知りえない。
ハレルヤ

神の民の希望

ユダヤ人がバビロン(新バビロニア帝国)に捕囚にされて、エルサレム神殿も破壊されたというお話をしてきました。
詩編147では最初に、主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めて、癒し、傷を包むと歌います。
ペルシャ帝国が興って新バビロニア帝国を倒し、ユダヤ人を解放するという奇跡。
ペルシャ王がユダヤ人にエルサレム神殿を建て直すことを命じたという奇跡。
これらの歴史をとおして、主を賛美しているわけです。

12~14節では、主がエルサレムの城壁の門のかんぬきをがんじょうにして、エルサレムの城壁の中に住むユダヤのひとたちを祝福してくれる、主が国境に平和を置いて外国の侵略から守り、畑の収穫は豊かにしてくれる、と賛美しています。

ちなみに「かんぬき」というのは、↓の写真のように、門の金具に棒をとおして、開かないようにする仕組みです。漢字だと見たまんま「閂」と書きます。

画像2( https://news.merumo.ne.jp/article/genre/9953931 より)

これだともう、破壊しないかぎり、開けるのは無理ですね。それくらい主の守りは頑丈だと歌っているわけです。もちろん主のご加護は破壊するのは不可能!

実は捕囚の最初の頃は、ユダヤの人々はあまく考えていました。「主の神殿、主の神殿」と言ってればそれでよいと思っていた。バビロンにやられても「主の神殿があるから大丈夫さ、どうせすぐ元に戻れるさ」と考えていた。「主の神殿」と連呼するのもべつに信仰によるのではなく呪文のようにそう言っていただけで、実際には外国の神様を礼拝したりしたのだから、神である主をかなりナメてたんですね。
だから、さらに多くの人が捕囚にされ、ついにエルサレムの神殿まで破壊されたとき、捕囚にされたユダヤ人たちはようやく、そしてどうしようもないほど、絶望したはずです。

もう主の神殿がない。もう主が私たちとともにいない。
そうして絶望していたユダヤ人たちが、奇跡的に、というか本当に神様の奇跡で、ユダヤに帰ってきてエルサレムの神殿を建て直した、その喜びと信頼を詩編147は歌ってるんです。

この歌では「してくださった」ではなく「してくださる」と歌っていることに注目です。過去形ではない。これらのことは「終わってしまった昔の物語」ではない。今まさに神様が私たちをそのようにあつかってくれている真っ最中だということです。

神をおそれ、神の慈しみを待ち望む

11節では次のように歌っています。

主が望まれるのは
主を畏(おそ)れる人
主の慈しみを待ち望む人。

「おそれる」という字は「恐れる」「怖れる」「畏れる」などがありますが、「畏」の字についてある漢字辞典では次のように説明しています。
この字は「鬼」の字と「虎」の字が合体したもので、「鬼のあたまと虎の爪をもっているくらいおそろしい」ということをあらわしているのだと。

スライド1

「慈しみ」については、英語聖書だとmercy(慈悲)と訳しているものもあるけれど、love(愛)と訳してるものある。
but the Lord takes pleasure in those who fear him,
in those who hope in his steadfast love.(ESV)
「主の慈しみ」を待ち望むというのは、「主の愛」を待ち望むということです。

旧約聖書が伝えている神様はおそろしい神さま、新約聖書が伝えている神様は愛の神様、と感じる人も多いかもしれません。でも旧約と新約で神様のキャラが変化したのではないです。旧約の時代から主は、おそろしい神様であると同時に、愛の神様です。
それに実は、旧約聖書が伝えているおそろしさよりも、新約聖書が伝えているおそろさのほうがずっとおそろしい。旧約聖書で神様に打たれて死んだ人は地獄に行っていませんが、新約聖書は主が人を地獄と呼ばれる永遠の炎に叩き込むことをはっきり伝えているのだから。

旧約も新約も関係なく、聖書が伝えている神様は、私たちのほんのちょっとの罪さえも見逃さない、とんでもなくおそろしい神なんです。
でも、私たちの罪をゆるすために、神様自身であるイエス様が十字架で、私たちのかわりに罰を受けたほど、とんでもなく深い愛で私たちを愛している神様なんです。

主ヤハウェは「おそろしい神」であるからこそ、そんなおそろしい神がこんなにも私たちを愛している「愛の神だ」ということがわかるんです。「恐ろしさ100%、愛100%」なのであって、それを「まぜたら、恐ろしさ0%、愛0%」となんて考えちゃいけない。
6節に「主は貧しい人々を励まし、逆らうものを地に倒される」とあるけれど、この「貧しい人々」というのは、お金とか財産のことではなく、自分という人間の貧しさです。自分の小ささを知る者こそ、神様の偉大さを知る。「私は偉大だ」といって神をないがしろにする邪悪な者は、地べたに投げすてる、と主は言ってるのです。
神様のおそろしさがわかる人ほど、そのおそろしい神様がこんなにも愛してくれているということがわかるんです。「神なんておそろしくもなんともない」という人には、神様の愛もわかりません。

そのことを神様は、詩人をとおして、「主ヤハウェが望んでいるのは、主をおそれる人、そして主の慈しみ、主の愛を待ち望む人」と伝えているんです。

御言葉はただちに

15節から、主の御言葉はただちに実現するので誰も逃げられないことが賛美されます。
おそろしい主の御言葉によって大地は雪や霜や氷でこごえてしまう。
そのような凍った世界も、主の御言葉によって溶かされる。
主は、主を畏れる人、主の愛を待ち望む人を求めているからです。

イスラエルという特別

最後に主は、イスラエルが神様にとって特別であることを宣言します。19-20節です。

主(ヤハウェ)はヤコブに御言葉を
イスラエルに掟と裁きを告げられる。
どの国に対しても、このように計らわれたことはない。
彼らは主(ヤハウェ)の裁きを知りえない。

これは、イスラエルという民族や国がすぐれているという意味の「特別」ではありません。どの民族や国がすぐれているという発想は、聖書にはない。
ふつうの人間アブラハムから始まった、普通の民族イスラエルを、主が一方的に特別扱いしているという「特別」です。
「ヤコブ」というのここではイスラエルのことですが、主の御言葉、主のおきて、主の裁きを、イスラエルをとおして告げるという特別扱いなんです。
ほかの国に対してそのようなことはしないし、主の裁きを知ることはない、と言い切っています。

旧約聖書は、イスラエルが、ユダヤ人が、主に背き続けた歴史を伝えています。ついには異邦人の国に捕囚になったほどですが、それでも捕囚から帰ってきた人たちに主は「わたしはあなたたちイスラエルに、御言葉を、掟を、裁きを告げる」と誓っているのです。

この主の言葉はもちろん、今も有効です。神の賜物と招きは、取り消されることはありません(ローマ11:29)。旧約聖書が伝えるイスラエルのそむきから私たちが学ぶことは「それでも主はご自分の民を愛し、帰ってくることを待ち続ける」ということです。
キリスト教には「神のアブラハムへの約束は、彼らの不信仰のためにイスラエルから取り上げられて、キリスト教会に与えられた」と教える人たちもいるのだけど、そのようなことは聖書には書いていないばかりか、聖書はそれとは逆のことばかり伝えています。

アブラハム以来ずっと、イスラエルが主を信じて従うターンでした。
でも2000年前、ユダヤ人のほとんどは救い主メシアを信じることができなくて、わたしたち異邦人がイエス様を信じるターンが始まりました。
でもそれは、教会がイスラエルのかわりになったというのではなく、わたしたち異邦人が神の民イスラエルに加えられたのだと、新約聖書は繰り返し繰り返し告げています。まるで「異邦人クリスチャンはそのうち勘違いするから念のため書いておくよ」というくらい、しつこく繰り返し書かれています。
主が愛し続けているイスルラエルに、イエス様の十字架によってわたしたちも入れてもらった。それは、わたしたち異邦人がメシアを信じるのをユダヤ人がねたみ、ユダヤ人もメシアを信じるためです(ローマ11:11)。

主は、エルサレムを再建し、散らされたイスラエルの人々を集た。
でもエゼキエルが見た幻のように、新しいエルサレムがやってくる。そしてユダヤ人だけでなく、異邦人も含めた新しいイスラエルとして、私たちは主イエス様が雲に乗って再び来て(ルカ21:27)、新しい神殿に入ってくるのを見るのです。

これはおとぎばなしではありません。すでに実現された預言と同じように、必ず実現することです。
しかも実際に今この時代に、ユダヤ人がイエス様を信じるターンが始まっています。

来週からアドベントです。イエス様が生まれたクリスマスを記念することは、イエス様がもう一度来る日を待ち望むことです。主を待ち望みましょう。

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