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「自分をいけにえとしてささげろ」て、それどこの調査兵団【ローマ12:1】【やさしい聖書の話】

2023年6月18日(日)の教会学校でのお話をもとに。


「犠牲」は「いけにえ」

命をささげる

ぼくたちはふつう、神様へのささげものとして、お金を献金します。
でも旧約聖書の時代は、神様へのささげものは、主に畑の作物と、そして生き物の命でした。

「犠牲」という言葉があります。
「犠」の字は「いけにえ」という意味で、古代中国で神様やご先祖様にささげるいけにえを指しました。その意味から、目的のために人が命をささげることも意味します。
「牲」の字は、お祭りで神様にささげる家畜のことです。「犠」と違って「牲」は人間を指すことはないようです。牛へんに生きると書くのは、もともとは生きたまま神様にささげる牛を指したからです。

事故などで亡くなった人を「犠牲者」と言いますが、たぶん天災で亡くなった人を「神々に命をとられた」という意味で犠牲と呼び、そこから不慮のできごとで亡くなった人をひろく犠牲者と呼ぶようになった、ということかなと思います(となるとキリスト教的には偶像礼拝用法かも)

旧約聖書では

古代中国の人たちがおがんだ神様と、聖書の神様は違います。でも聖書の神様にも動物の命がささげられてきました。
聖書の中で一番最初に神様にささげものをしているいのは、カインとアベルの兄弟です。カインは畑の作物を、アベルは羊をささげました。
この時なぜカインとアベルがなぜ神様にささげものをしたのか、創世記には書かれていません。何か理由があったからではなく、ただ神様へのプレゼントとして、神様に喜んでほしくて、一生懸命育てた作物や、神様がくださった羊の命をささげたのだと思います。

のちの時代に神様がモーセをとおしてイスラエルに律法をさずけます。その中には、「こういう罪を犯したときには、神様との仲直りのためにこういうささげものをしなさい」といった決まりも入っていました。
こうして犠牲、いけにえは、罪が赦されるためのものになりました。それで新約聖書にも次のように書かれています。

こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです

ヘブライ人への手紙9:22(新共同訳)

新約聖書では

新約聖書の時代になると、たとえばマリアとヨセフは、イエス様が生まれたあとハトを神様にささげています(ルカ2:24)。
神殿にお金をささげる場面もあるので(ルカ21:1-4)、どちらもありだったようです。

いけにえにされる動物の命を神はどう考えている?

聖書、特に旧約聖書を読んでると、神様に動物をささげる場面がたくさん出て来ます。
律法が与えられると、神事として「家畜をささげるときは、血を祭壇にふりかけて、肉はこういうふうに焼いて」といった細かい決まりが整備されます。

旧約聖書を通し読みすると、ものすごい量の動物たちが神へのささげものとされたのだろうなと思います。
年間でどれくらいの動物が、神にささげるためとして殺されたのだろうと思うほどです。イスラエルの民が動物を祭司のところに連れてくる。祭司たちは受け取った動物を、神様から命じられた通りに扱う。毎日毎日毎日毎日。

そうやって殺される動物を、神様はかわいそうだと思わないんだろうか。
動物の命は大事じゃないんだろうか。

もちろん聖書の神様は、動物の命をとても大切にしています。なんといっても、それらの動物をつくり命を与えたのは神様なのだから。
動物たちに命を与えた神様が、動物たちの命を大切に思わないわけがないでしょう。
で、動物たちの命が大切だから、神様は、動物たちの命をささげなさいっていう律法を作ったんだよ。どうでもいいもの、全然大切じゃないものは、ささげものにならないから。

神様は動物たちのことも、とても大事。
でも神様は、ぼくたち人間のこともとても愛している。だから人間の罪がゆるされるために、「とても大切な動物たちの命」をささげることを特別にゆるしてくれていたんだ。
「あなたたちは、罪があるままでは滅びなければいけない。でもあなたたちが滅びる代わりに動物たちの命をささげることを特別に許可しよう」って。
「人間は自分の罪のために、神様との関係を壊してしまう。だから動物たちを、神様と仲直りするためのささげものとしてささげることをゆるそう」ということなのだと思う。

究極のいけにえ

でも、動物の命を神様にささげて神様と仲直りできても、人間はまた罪をおかしてしまう。
だからまた動物の命をささげなきゃいけなくなる。旧約聖書の時代はそうして、イスラエルでは動物をささげ続けていたんだ。

そこで、「神であるキリスト」イエス様が来てくれて、ぼくたちの罪が赦されるために十字架で命を捨てた。十字架という祭壇で、神の小羊イエス様をいけにえとしたんだ。

イエス様は神様だから、十字架でたった一度命をささげることで、イエス様を信じるすべての人のすべての罪、イエス様を信じる前の罪もイエス様を信じたあとの罪もゆるすことができる。
イエス様を信じたぼくたちは、罪がゆるされるため、神様と仲直りするために、動物の命をもうささげなくていい。ぼくたちのために十字架で死んだイエス様の名前で「神様、ゆるしてください」と祈るだけでいいんだ。

自分をささげる

聖書は、次のようにぼくたちにすすめています。

神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ローマ書12:1(新共同訳)

いけにえというのは、神様に献げられる命のことです。
「いけにえとしてささげなさい」というのは、旧約の時代に動物たちの命を神にささげたように、あなたたちの命を神にささげなさいということです。それが私たちがささげる礼拝だと。

じゃあぼくたちは、自分の命をささげないといけないんだろうか。

諫山創『進撃の巨人』講談社

そうじゃない。ローマ書12:1をよく見てみよう。

自分の体を
神に喜ばれる
聖なる
生けるいけにえとして
献げなさい。

ローマ書12:1より。改行は引用者による。

「生けるいけにえ」つまり生きているまま、自分を神様のものにするんだ。

「聖なる」いけにえだ。
といってもぼくたちは、自分で自分を聖なる者にすることはできない。イエス様がぼくたちを聖なる者にすることができる。重い皮膚病の人がイエス様に「御心ならわたしを清くすることができます」と言いうと、イエス様はその人にさわって「よろしい。清くなれ」と言われた。そしてその人は清くなった。

「神に喜ばれる」いけにえだ。
どうすれば神に喜ばれるかは、聖書にたくさん書いてある。
そして何をすると神を怒らせるかの事例も聖書にたくさん書いてある。
それらを私なりにまとめるなら、神に喜ばれるためには「イエス様を信じること」そして「神への恐れと感謝をもって神に仕えること」だと思う。

神様に仕えるというのは、礼拝をささげること、そして、人に親切にすること。一番弱くて一番ちいさい誰かにしてあげるのは、イエス様にしてあげることなんだ(マタイ25:40)。

こういうことは、今すぐできるようになることではないけれど、でも大丈夫。神様はぼくたちを変えることができる。
今は「神様に喜ばれる、聖なる、生きているささげもの」になんかなれないという人は、神様が私を変えてくださいって祈ろう。土のチリからでも人間をつくれる神様には、ぼくたち人間を変えるなんて簡単なんだ。
といっても神様は、ぼくたちの心を勝手に変えるようなことはしないよ。ぼくたちがイエス様を信じて、「神様、私を変えてください」と祈り求めるなら、祈りをきいて変えてくれるっていうこと。

安心して、自分の心を神様にまかせてしまおう。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年6月18日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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