100匹の羊【ルカ15:1-7】【やさしい聖書のお話】
2023年2月26日の聖書のお話です。
「100匹の羊」のたとえ
イエス様は、いろいろな人たちと仲良くしていました。
でもそれはおかしい、と考える人たちもいました。それは聖書の専門家たちで、こういうふうに考えていました。
「イエスは徴税人なんかと仲良くしている。徴税人というのは、神様を信じないローマ人と付き合う仕事で、神の国からもっとも遠い連中なのに」
「イエスは罪びとと仲良くしている。罪びとというのは、神様が決めた律法に違反したやつらなのに」
これを聞いたイエス様は、たとえ話を始めました。
「あなたが、百匹の羊を持っていて、草を食べさせるために野原に連れて行ったとしよう。ところがその中の一匹がいなくなってしまった。さあ、どうする?九十九匹を野原に待たせておいて、いなくなった一匹を探すよね?
それで、いなくなった一匹を見つけたらどう思うかな?たぶんその時あなたは、『99匹が、いなくならなかった』ということよりも、『いなくなった1匹が見つかった』一匹のことのほうがうれしいよね。」
それからイエス様は、神の国も同じなんだと教えて、こう言ったんだ。
「悔い改め」とは
ここで「悔い改め」という言葉が出てきたけど、これはとても難しい言葉です。
なぜ難しいかというと、教会では「悔い改め」という言葉を全然違う三つの意味で使うからです。
まず、「私たちは戦争責任を悔い改めなければならない」という使い方。
でも、君は戦争していないよね?自分がしてないことは悔いることも、改めることもできません。仏教ではご先祖のために子孫が供養するという考え方もあるけれど、キリスト教にはたとえご先祖だろうと他人がしたことを代わって悔い改めることはできないんだ。
「悔い改め」のもう一つの使いかたは、何か失敗をしてしまって「もうこんなことは二度としない」という場合です。
「悔い改め」の「悔い」は後悔すること、「あらため」というのは「今までと変える」ということです。「悔い」だけだったら後悔するだけでもいいのだけど、「あらため」がついているので今までとは変えないといけない。振り返ってみて、間違ったことをしたと気づいたなら、「そんなことはもうしない自分」に変わる。それが「悔い改め」の二つ目の使い方です。
でもね。
悔い改めて「自分はもう変わる、もう二度と同じ間違いはしない」って思っても、またやっちゃうってことがあるんだよね。
お母さんから「何回言ったらわかるの!」て叱られたことない?ぼくはいつもだった。今も奥さんから「何回も言ってるのに!」て言われちゃうことがある。そのたびに悔い改めるんだけど、でもまたやっちゃう。
イエス様が今日のところで言ってるのはもっと違う「悔い改め」です。
失敗するたびに繰り返す「悔い改め」ではありません。今までの自分の間違いを悔いて、自分を改める、たった一度の悔い改め。それは「神様に従わないのは間違いだ」と気付いて、「イエス様を信じて生きる自分に改める」という悔い改めです。
神様と関係ない方を向いて生きてきたのを、向きを変えて、神様に向かって生きる、イエス様と共に生きる自分に変わるのが、今日のところでイエス様が言っている「悔い改め」です。
回心の悔い改め
この「たった一度の悔い改め」は、「回心」とも言います。
回は「まわる」という意味の字で、向きを変えてもとに戻るという意味があります。
「人生が180度かわった」という言い方があるけど、180度だと、もと来た方に引き返すだけだよね。
回心ていうのは人生が360度変わることなんだ。360度だと一周回ってもとと同じ方を向いてるように見えるけれど、でもそれは回心した、向きを変えた新しい自分なんだ。
イエス様を信じた瞬間から、天使みたいな翼がはえて天国に引っ越しするわけじゃない。この世で、今までと同じ人生が続く。でもそれは360度回った、回心した、新しい自分なんだ。
イエス様を信じて何が変わった?
たぶん、見た目は何も変わってないよね。360度回る前と回ったあとではおなじ方を向いているように見える。
でも、見た目はかわってなくても、見えない神様と生きている。見えないイエス様が共にいる。そういう新しい自分になるというのが、「悔い改め」ということなんだ。
回心してからの一歩は、回心する前の一歩とはまったく違う。新しい生き方の一歩なんだ。
回心の悔い改めはたった一度
回心の悔い改めが「たった一度」だというのは、一度イエス様と生きる生き方に自分を変えたら、もうそれ以上かわることも元に戻ることもないからです。
もし君が「もう神様を信じるのやめる」と決めたとしても、君を愛することをやめない神様は君を無くすことはないんだ。
だからキリスト教には、基本的には「洗礼(バプテスマ)を受けなおす」ということはないんだ。イエス様を信じて「父と子と聖霊の名によるバプテスマ」を受けたら、もうそれでいい。
(「基本的には」というのは、たとえば幼児洗礼(自分の信仰によってではなく親の信仰によって赤ちゃんの頃にバプテスマを「受けさせられた」場合)については、「そのバプテスマは無効。本人の自覚的な信仰によってイエス様を信じてからバプテスマを受けなおす」という考え方もあるためです)
イエス様をまだ信じていない人。あなたは、神様の前からいなくなっている一匹の小羊です。
イエス様はなんとかして、大切なあなたを取り戻したい。そのことを知って悔い改め(回心)できたらとてもすばらしいと思います。
もうイエス様を信じてバプテスマを受けた人。あなたは、もうイエス様によって取り戻された小羊です。もう二度と失われることはありません。
イエス様を信じた後も失敗することはあるよ。パウロだって「私は、私が望まない悪をしてしまう」と言ってる。でも、イエス様に取り戻されたということは、イエス様を信じる前の罪もイエス様を信じた後の罪も、すべてゆるされたということです。失敗に気付いたときには素直にイエス様にごめんなさいをして、同じ失敗をしない自分を目指そう。
大丈夫。自分で自分を変えるのは難しいけれど、でも神様はあなたを変えることができるから。
動画版のご案内
このnoteの内容は、2023年2月26日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。