「正しい者は生きる」と言っておいて「正しい者は一人もいない」とは【ローマ3:9-20】【やさしい聖書のお話】
2023年4月23日(日)の教会学校でのお話をもとに。
正しい者は信仰によって生きる
こんにちは。のぶおリーダーです。
「のぶお」は、「信じる」に「生きる」と書きます。
ぼくのアルバムの、生まれて5日目の写真には、横にこう書いてあります。
「見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし、義人はその信仰によって生きる。」
これは旧約聖書、ハバクク書2:4の言葉です。ちょっと古い、口語訳聖書の言葉です。
ぼくの父がお世話になった牧師が、この個所から、
「信仰によって生きる」で信生と名付けてくれました。
(その牧師は何人もの赤ちゃんに「信生」と命名したという噂も聞いたのだけど...)
これをパウロが、ローマの信徒への手紙で引用しています。今度は新共同訳聖書で引用します。
口語訳で「義人」。
新共同訳で「正しい者」。
そういう人は「信仰によって生きる」んですよ。
こんな名前負け、ありますかってw
ただ、ですね。
正しい者は一人もいない
このあとパウロはこう書いてるんです。
1章で「正しい者は信仰によって生きる」と書いたのに、3章で「正しい者は一人もいない」って、どういうこと?
実はこの話の直前で、パウロはこう書いているんです。 「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下(もと)にあるのです。」
ギリシア人というのは、異邦人という意味で、ユダヤ人以外のすべての人つまりぼくたちのことです。 「ユダヤ人も異邦人も、人間はみな罪の下(もと)にあるのです。だから、 「正しい者はいない」なんです。
その結果、
罪の下にあるということは、こんなにも悲惨なことなんです。
でも、だからこそなんだ。
すべての人がそんなにも悲惨だからこそ。
神様であるキリストが、私たちのところにきて、イエスという名前、「神であるヤハウェは救い」という名前になって、十字架で死んだんだ。
ぼくたちを「罪の下」から取り返して、神のものとするために。
イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言った(ルカ5:32)
正しい者が一人もいないから、ぼくたちが罪びとだったから、イエス様は来てくれた。
だから、
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
とも書いてある(ローマ5:8)
ぼくたちは正しくなかったけれど。
ぼくたちが正しくなかったからこそ。
ぼくたちがゆるされるために、キリストであるイエス様が十字架で死んでくれた。それでぼくたちは、「キリストの死は私のためだった」ということを受け入れるだけで、信仰によって生きる正しい者になったんだ。
「正しい者」。
口語訳聖書では「義人」。正義の「義」に「人」。
「義」という字は、「羊」の下に「我」と書きます。
人間はみな罪の下にある。でも「神の小羊であるイエス様」の下に「我=自分」を置くことで、「義」とされる。
だからパウロは、こういうことも書いています。
これが「信仰義認」です。
ぼくたち不信心な者は、神によって義とされます。条件はたったひとつ、神を信じることです。それによって、何か修行をがんばるとかではなくて信仰によって、義と認められるのです。
動画版のご案内
このnoteの内容は、2023年4月23日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。
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