「待つ」ということ。ヤコブの手紙5章【やさしい聖書のお話】

布忠の教会では、礼拝の中で牧師の説教とは別に、教会のみんなが交代で子供にもわかりやすい(ということは大人にもわかりやすい)聖書のお話をする時間があります。
以下は布忠が2021年7月に担当した、ヤコブの手紙5章7節-8節からの聖書のお話(の原稿(を再編集したもの))です。

ノアのこと

ノアの時代に世界が洪水になって、ノアと家族と動物たちは長いこと箱舟に乗っていました。
一年くらい経って水が減ってきたとき、ノアは箱舟からカラスを飛ばしたけれど、留まるところがなくて帰ってきた。
次に鳩を飛ばしたけれど、やっぱり留まるところがなくて帰ってきた。
7日待ってから、もう一度鳩を飛ばすと、鳩は木のはっぱをくわえて戻ってきました。それで、洪水の水がなくなってきて地面が出てきてることがわかった。
ノアはさらに7日待ってから鳩を飛ばした。すると鳩はもう戻ってこなかったので、洪水が終わってもう陸が乾いたということがわかった。

それでもノアは、箱舟から出ようとしませんでした。神様が「箱舟から出なさい」と言うのを待ってから、箱舟を降りました。

出エジプトのこと

イスラエルの人たちがエジプトで奴隷だったのを、神様がモーセをリーダーにして助け出したときのことです。
エジプトの軍隊が追いかけてきたのでイスラエルの人がこわがって大騒ぎになったとき、モーセはこう言いました。
「主があなたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」
それでイスラエルの人たちは恐ろしさをがまんして、神様が何かするのを静かに待ちました。
すると神様が海を真っ二つ分けたので、イスラエルの人たちはそこを通って逃げていくことができました。

サウル王のこと

神さまが何かをするとき、ぼくたちは「待つ」ということが大事です。
待たないといけない時に待たなかったせいで、失敗した人たちもいます。

イスラエルの最初の王様サウルは、戦争が始まるとき、預言者サムエルがイスラエルために礼拝しに来るのを待つことができなくて、勝手に礼拝しました。
そのせいでイスラエルの王様のくらいは、サウル一族から取り上げられてダビデ一族のものになりました。

捕囚された人たち

8月から旧約聖書のエゼキエル書を読みます。捕囚といって、イスラエルの人たちが戦争で負けて外国に連れて行かれた時代のできごとです。

イスラエルが神様の言うことを聞かなくなったせいで捕囚になったのだから、反省して、神様が助けてくれるのを待てばよかった。
でもそうしなかった。この時代のイスラエルの人たちは「主の神殿!主の神殿!主の神殿!」と言ってれば自動的になんでも解決すると思ってた。「どうせすぐイスラエルに帰れるさ。神様が助けてくれるっしょ」なんて思ってた。
すると次の戦争でエルサレムの神殿も壊されて、「主の神殿!主の神殿!」と言ってた人たちは、すぐ帰れるどころか、外国に連れて行かれたまま何十年もエルサレムに帰れなかった。

救い主を待っていた人たち

ユダヤの人たちはみんな、救い主が来るのを待ってた。でも待ち方を間違えた。
みんなが好き勝手に「救い主はこんな感じ」って想像して、でもイエス様が登場したとき、自分たちが想像してた救い主と違ってたから、イエス様が救い主だって気付くことがわかることができなかった。

ヤコブの手紙

ヤコブは手紙の中でこう書いています。
農家の人たちが天気と付き合いながら、実りの季節がくるまで忍耐して待ってるでしょ。農家の人がどんなに急いでても、実るのを早くすることはできないでしょ。
あなたたちも、イエス様がもう一度やってくるという約束が本当になるのを、忍耐して待ちなさい、って。

「忍耐」というのは苦しいことを我慢するという意味です。
でも何もしないで待ってるということではない。農家の人たちは実りの季節を待って忍耐している間、良い実がたくさん実るように一所懸命に働いている。

アブラハムの失敗

神さまを待てなくて、自分でやっちゃおうとして失敗した人もいるから難しい。
アブラハムはおじいさんになったとき、神様が「子供が生まれる」と約束してくれました。でも待つことができなくて、「奥さんのサラもおばあさんになってるから、もう一人若い奥さんと結婚して赤ちゃんを産んでもらおう、神様の約束はそういうことだったに違いない」と考えた。
アブラハムは神様を信じて、神様の言うとおりにしたと思ったのに、新しい奥さんのハガルが、ずっとアブラハムと一緒に生きてきた奥さんのサラをバカにしたりするようになって、家族はもめてばかりになってしまった。

待つ、っていうのはとても難しいことです。
「神様が必ずよいことをしてくれる」っていうことを本気で信じられないと、「待ってるだけじゃダメなんじゃないか、自分が神様の代わりに何かしなきゃいけないんじゃないか」って考え始めてしまう。
それで「神様のため」と本気で考えて戦争を始めたクリスチャンたちもいた。
日本でもちょっと前にある牧師が、「アメリカ軍の基地に反対するのが正しいのだから、そのためなら何をしてもいい」と考えて、暴力を使って逮捕されました。それはバプテストの牧師ではなかったけれど、でも「その逮捕は間違っている」と言い続けたバプテストの牧師たちもいました。

イエスさまの最後の命令

イエス様が復活したあと天に昇る直前、弟子たちへの最後の命令は、「父の約束されたものを待ちなさい」でした。
この時は、わりとすぐ約束が実現したのだけど、でもイエスさまは「父が定めた時とかタイミングは、あなたがたは知ることができない」とも教えています。

イエス様のお名前でお祈りすることはなんでもかなえてあげようって約束されています。
でもそれは、神様が一番いいと思うタイミングで、一番いいと考えたやりかたでかなえられるんです。ぼくたちが希望するタイミングで、ぼくたちが期待する方法でかなえられるとは限らない。だからずっと待たされることも多い。
そういうときは、同じことを何回も祈ってもいいんです。神様は「それもう聞いたから!」なんて怒らないから。
あと「神様、急ぐんです、早く助けてください」って祈ってもいい。
ただ、「神様、私が神様の代わりにこうすればいいんですよね、やっちゃいますね」って、自分の希望だけで決めつけちゃいけない。それがよいことだと思えても、自分の願いを「神様はこうしようとしてる」って決めつけるのは、神様のかわりに自分が神様になろうとすることだから。
そういう時は「神様、待ってる間にこういうことしてもいいですか」って祈りで確認して、答えを待つ。


私たちと神様の関係で、近道やチート技はないんです。
祈って、信じながら待つ。
祈って、信じながら待つ。

参考

日本聖書協会「聖書 新共同訳」
日本バプテスト連盟「聖書教育」2021年7,8,9月号

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