教会学校動画の証し
「やさしい聖書の話」シリーズについて
「やさしい聖書の話」は、布忠が教会学校リーダーとして担当・製作している動画の原稿を、再構成してnoteに公開しているものです。
2021年10月、教会でこの動画奉仕について証しする機会がありました。これは、なぜ教会学校動画をやってるのかという話そのものなので、番外編としてこれもnoteにアップすることにしました。
(証しの内容そのままではなく、再編集しています。教会内でだけ通じるウケ狙いや、教会外であるnoteでは説明が必要な部分などがあったので)
そういう話には興味ないという方は、この回はスキップしてください。今回は聖書そのものの話はありません。
教会学校が休止になる!
千葉バプテスト教会では、2020年春のコロナ対応は次のように段階的に進められました。
2月23日から、教会での調理は控えることになり、持ち回りで担当していたランチもお昼はスーパーのおにぎりとか、男性陣が担当の週はカップ麺祭りに。でもほどなくして教会での飲食を全面的に控えることに。
3月8日から、礼拝後の教会学校を全クラス休止。礼拝後はすみやかに退館することに。
4月12日から、礼拝も集まるのは中止。最低限の奉仕者によって礼拝をYoutubeでライブ配信することに。配信むけに礼拝プログラムを短縮。
もともと礼拝の中で、牧師の説教とは別に「聖書のお話」の時間がありました。教会学校奉仕者などが、牧師の説教と同じ聖書箇所から、子供にもわかりやすいお話を語る、5分ほどのプログラムです。
でも配信向けに礼拝プログラムを短縮する中で「聖書のお話」もカットに。
で、教会学校動画は「聖書のお話」と同様に、聖書箇所は日本バプテスト連盟の『聖書教育』のカリキュラムに準拠しています。でも、礼拝で「聖書のお話」がカットになったから教会学校動画を始めたのではありませんでした。
4月5日、年度の最初の日曜日から、動画の公開をスタートしています。3月8日から教会学校を休止することが決まってから、「それでも『教会学校』を子供たちに届けるには」ということで、小学科を担当していた布忠は「動画でクラスをやろう」と考えたんです。
それで編集アプリの使い方やYoutubeの始め方を調べたり、動画を試作したりしてみて。その上で3月に「小学科では新年度から動画でクラスをやろうと思ってる」ということを相談しました。
なので、千葉バプテスト教会の中では「聖書のお話動画」と呼ばれていますが、わたしの中では「教会学校動画」なんです。
教会学校を止めるな!
わたしの信仰生活、教会生活の中で、教会学校奉仕の占める部分はとても大きいんです。
諸事情により出身教会から千葉バプテスト教会に転入会するときも、最後まで悩んだのは出身教会の教会学校奉仕のことだったくらいで、だから「教会」よりも「教会学校」のほうがわたしにとっては大切といって過言じゃないくらいです。
たぶん、教会幼稚園の頃の園長先生の影響が大きいのだと思います。子供たちにイエス様の話をするのが楽しくて仕方ないというくらい、いつもニコニコでお話しする牧師でした。
天に召されたあと、関係者が説教集を出版されましたが、収録された説教も素晴らしいけど、あの先生の一番の魅力(だと私が感じていたもの)がかけらも感じられないと思ってしまったほどです。さすがベテラン牧師で深いメッセージなのだけど、この説教集の説教からは、先生の笑顔、イエス様の話をするのが楽しいという雰囲気は全然伝わらないなって。
わたしが教会学校リーダーになってしばらく経ち、紆余曲折もあって「自分はなぜ教会学校奉仕を続けているのだろう」と思ったときに、幼稚園のときの園長先生のニコニコや、小学生のときの教会学校がただ「楽しかった」しかおぼえてないということを思いだして、教会学校は楽しくなきゃいけない、奉仕者の自分がまず教会学校を楽しんでなきゃいけない、と思うようになりました。
教会学校から、教会から帰宅したときに、「楽しくて疲れた」ならいいけど、「難しくて疲れた」にしちゃいけない。教会学校の子供たちが教会につながり続けるために、たとえいっとき離れたとしても戻りたいと思えるように、教会学校は、教会は、楽しくなきゃいけないし、そのために教会学校は止めちゃいけない。
そして、あの園長先生のように、「のぶおリーダーがイエスさまを喜んでいたのはおぼえてる」なんて思ってもらえるようなリーダーになれたらと思っています。
これはわたし自身のためでもあるんです。
わたしがもし教会学校リーダーをやっていなかったとしたら、信仰も、主を愛することも、今の1割もわかってなかった。それくらい、わたし自身が教会学校の奉仕をとおして成長してきた実感があります。
教会の奉仕はさまざまあり、それぞれに恵みと顧みがあることを知っていますが、わたしの主観として教会学校奉仕が一番の役得だと思っています。
だから、わたし自身のためにも「教会学校を止めるな!」と思いました。
動画制作
教会学校動画の長さは、できれば5分台、長くても6分台と決めています。礼拝での「聖書のお話」が、小さい子供たちでも集中して聞くことができるように5分と決められていたからですが、今になって思うと動画を5,6分と決めたのはわたしじゃなくて主だったのだと思うんです。
なぜかというとですね。
編集時に内容を足すことはできないので、できるだけ原稿に盛り込んでおいて編集時にカットすればいい、という考え方をしています。さらに、原稿になかったことを撮影中に思いつきで足したり、途中で原稿を確認したり、活舌が悪いのを言い直したりで、撮影した素材はたいてい10分以上、時には20分を超えることもあります。それを編集時に5,6分にまで編集するわけです。
そうやって撮影したものを半分から1/3くらいの長さまでカットすると、残ったものは不思議と「今回の聖書箇所からは、どうしてもこれだけは伝えないと」ということだけになるんです。
「あれも入れたい、これも伝えたい」「うまいこと言ってやろう」などはカットしないと、時間内に収まらない。
そうしてできあがったものは「ああ、あそこは削って正解だった」ってなるんです。「削らなきゃよかった」と思ったことは、多分ないです。
たとえば、教案誌『聖書教育』でこの部分の解釈は賛成できないなというときに、その部分ばかり集中して語ってたりとか。編集時に「これは、聖書教育にケンカ売りたいだけだな。子供たちに伝えたくて語ってないな」と気づかされる。
具体例をあげます。
エゼキエルが見た新しいエルサレムの幻の箇所のとき、神殿の寸法など細かく計測されて記録されているけど、それが捕囚から帰ってきた人たちが再建した神殿と合ってない、という話を、ですね。
「魏志倭人伝に記録されている邪馬台国までの道順も、書いてあるとおりだと九州よりはるか南の海の上になってしまう。具体的に詳細に書かれていればいいということではないらしい」てやろうとしたんですよ。
どう考えても、邪馬台国は関係ないですよねw
なのにこの時は、他を削って削って、最後にこの邪馬台国のくだりもカットしないと納まらなくて泣く泣くカットしたんです。
出来上がってみたら、なんであんなに邪馬台国の話をしたかったのか、自分でももうわからないw
「長くても6分台」って決めてなかったら、聖書解釈について誰かにケンカ売るだけの動画や、なぜか邪馬台国の話が出てくる動画になってしまっていた。
撮影時には勢いで語ったけれど編集時は冷静になってるということもありますが、5,6分という枠はこれは主からのことだなと。
自分が語りたいだけじゃないのか?
うまいこと言おうとしてないか?
『それを子供たちに語れ』と主が言っている確信があるか?
「自分が語りたいだけのこと」を、『主がそれを語れと言ってる』だなんて、わたしが決めちゃいけない。
そんなこんなで1年半
反省を重ねながら、毎週日曜日の聖書のお話以外にも元旦の聖書メッセージやクリスマス工作の動画など、2021年10月10日現在で85本の動画を製作してきました(ただし初期の、動画内で絵本や紙芝居などの著作物を使用している回は、現在は非公開にしています)。
励ましをいただいていますが、がんばっているというよりも、けっこう楽しんでやってます。
ただ、この動画を始める前は教会学校週報を担当していたのが、さすがに両立できず休刊にせざるを得なかったのは残念です。
教会学校週報も喜びをもって担当していたので、休刊を考えなければならないのはかなり残念でしたが、無理なものは手放さなければならなかった。
そもそも、教会学校動画はこんなに長く続ける想定じゃなかったんです。教会学校もすぐ再開するだろうからそれまでがんばって、その後はまた教会学校週報を再開しようと。
それが、「小学科を動画で」から「教会学校の動画」に位置づけがかわり、今年度はわたしが小学科担当から中高生科担当になっても続けさせてもらって、楽しんでいる。
ただ。
今回の緊急事態宣言(2021年8月下旬~9月)で再び礼拝の参集を中止して配信のみとした際、礼拝配信の中で「聖書のお話」枠として制作した動画を流しましたが、あれは参りました。
参集を中止しているとはいえ、礼拝奉仕の担当があって何人かは教会に集まるのですが、結果、礼拝の中で他の奉仕者のみなさんと一緒に、スクリーンの大画面で自分が語ってるのを見なければならないという。
「なんなんだ、この恥ずかしさは」と。
特に、ユダヤ新年ということで動画の中で角笛を吹き鳴らしたあとの、いつも以上の自分のドヤ顔(どんなもんだと言わんばかりの得意そうな顔)を、教会のみんなと一緒に見なければならないとは。
礼拝堂から逃げ出したかったですwww
奉仕を楽しめる幸い
もともとは、教会の奉仕というのはわたしにとって、楽しさとか喜びというものとはあまり関係ないものでした。
クリスチャン家庭に生まれ、「教会で何か頼まれたら、それはイエス様から頼まれてるんだからね」と教えられて育ったので、「はい、やります」しか選択肢がないんです。
苦手な奉仕、たとえば特にチラシのポスティングなどは絶対に回避したくて、なんとかさりげなく逃げようとするのですが、でも逃走できる前に声をかけられたら「はい、やります」しかない。
出身教会で教会学校奉仕を始めたときも同じでした。地方の大学を卒業して地元に帰ってきたとき、わたしには「教会学校リーダーやってくれる?」などの確認は一切なく、わたしの意志とまったく無関係に、新年度の奉仕者名簿にわたしの名前が入っていたのです。でもだからといって反発も疑問もなく、「ああ、やることになったんだな」だけでした。
でも今は、あの園長先生のようにという思いと、聖書に取り組むこと自体が楽しいということもあって、教会学校奉仕を喜んでいるし、教会学校動画も楽しくやってます。
祈りのリクエスト
というわけで、あまり教会学校動画をたいへんだとは感じていないのですが。
たいへんなのは、季節や天候ですね。基本的には屋外で、いくつかお気に入りの(でもあまり人がいない)公園で、仕事が休みの土曜日に撮影するのですが、土曜日に天気が悪かったりすると困るし、夏場の公園はセミがうるさすぎたりします。
最近ではそういうときは、ロケをせずにアバターを使うなどの工夫もおぼえましたし、むしろそっちのほうがラクなくらいです。
だから、この奉仕のために祈ってほしいことあげるなら、がんばれるようにというよりは、がんばりすぎないようにということです。
一週間の限られた時間やエネルギーの配分を間違えて、動画作成につぎこみすぎないように。
内容的にやりすぎないように。
そして何より、「自分が何を語りたいか」を手放して、「主がこの箇所から何を語れと言っているか」を思うことができるように。
ありがとうございました。
お祈りと、ご意見ご助言、動画の視聴とチャンネル登録と「イイネ」と拡散を、よろしくお願いしますw
あと、教会学校や聖書のお話をやってみようかなという方、お近くの教会学校奉仕者か、教育主事にご相談ください。やらなきゃ損です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?