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十字架へ進んできたのにブレーキ?【マルコによる福音書14章27-42】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は教会学校動画の原稿を再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところがあるかと思います。動画版は↓のリンクからどうぞ〕

クイズです

問題:
十字架にかかる前の夜、イエス様がつかまった場所は「ゲッセマネ」である。〇か×か?

答えは、×です。聖書には、ゲセマネじゃなくて、ゲセマネて書いてあるんですね。
え?この問題、前にもやった?

 最後の晩餐のあと、イエス様は弟子たちと、ゲツセマネというところに出かけていきました。イスカリオテのユダは裏切るために出て行ってしまったたので、弟子たちは11人です。

ゲツセマネは、エルサレムからだと東側の門を出て谷をぐるっと迂回して1kmもないくらい。歩いてすぐです。

最後の晩餐(ばんごはん)のあとだから、夜。街灯がない時代だけど、過ぎ越し祭の頃というと現代の3月から4月なので、イスラエルでは雨季が終わるころ。たぶん、歩くのに困らないくらいには月や星が明るかったと思う。昼間は暑すぎるので、旅をするときは夜に歩いていくのが普通だったし。

ただ、ゲツセマネというところは、木がたくさんあるところでした。ゲツセマネっていうのは「油をしぼるところ」っていう意味で、オリーブの木から実をとって、それをしぼってオリーブオイルをつくる場所だったんだ。

今もゲツセマネには、オリーブの木がたくさん植えられています。イスラエルは農業の国でもあるのだけど、オリーブの実やオリーブオイルはイスラエルの輸出品のひとつです。

現代のゲツセマネ。奥にあるのは「ここでイエスが汗を血のように流して祈った」とされる場所の上に立つ「万国民の教会」

 余談だけど、パレスチナ問題でパレスチナを応援するために、イスラエルはパレスチナを苦しめている悪い国だというのでイスラエルの輸出品を使わないようにしようというBSD運動がはやりました。韓国で日本をこらしめろといってノージャパンをやってるような感じです。
それでイスラエルのオリーブ工場などがつぶれたりもしました。じゃあこのBSD運動は成功したのかというと、実はパレスチナ人の中でイスラエルに出勤して働いている人も多くて、そうした人たちがイスラエルの工場がつぶれたせいで仕事をうしなってしまったんです。パレスチナを応援するためにイスラエルを苦しめるのが正しいと思った人たちが、パレスチナ人を苦しめてしまった。これも、韓国人がノージャパンをがんばればがんばるほど韓国人の生活が苦しくなったのと似てますね。

 話を戻します。

一人で祈るイエス

この夜、イエス様はゲツセマネの入り口に弟子たちのほとんどを待たて、ペトロとヤコブとヨハネだけ連れてゲツセマネの奥に進んでいった。

そして途中でこの三人にも「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と言って、一人でもう少しゲツセマネの奥に進んでいってそこで祈り始めたんです。 

イエス様が弟子たちに「祈っていなさい」と言ったということも、聖書に書いてある。
ヨハネによる福音書には、ゲツセマネの果樹園のことを「イエスは、弟子たちと共にたびたびここに集まっておられた」と書いてあるのだけど、たぶんエルサレムから近いけれど静かなこの場所に、イエス様と弟子たちはよく祈りに来ていたんじゃないかな。

 でも、イエス様がペトロたちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。目をさましていなさい」と言ってる。
イエス様は、これから自分がつかまって十字架で殺されることを知っていました。それでユダがイエス様を裏切るために、最後の晩餐の家から先に出て行った。ていうか、イエス様がユダに「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言ったから、ユダは裏切るために出て行ったんです。
でも、十字架で死んでぼくたちを救うのがイエス様の目的だからと言って、イエス様がそれを知っていたからと言って、イエス様は平気だったわけじゃないんです。「死ぬばかりに悲しい」んです。

イエス様はきっと弟子たちに「わたしのために祈ってほしい」と思っていたんだと思う。

 そしてイエス様は、一人になってこう祈りました。

アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。

マルコによる福音書14:36

 「アッバ」は、アブラハムの「アブ」と同じで、「父」という意味。
ただ、アブはふつうに大人が使う言葉だけど、アッバは子供が使う言葉です。イエス様は、子供がお父さんを呼ぶようにして、天の神様に話しかけてるんだね。

ただ、その話しかけてる内容は、「この杯をわたしからの取り除けてください」でした。

「杯」という言葉は、聖書でいろいろな表現で使われています。

詩編23の「あなたはわたしのをあふれさせてくださる」とか。
詩編116の「救いのを上げて主の御名を呼び」とか。
これらの個所では、杯は「主からのよいもの」でいっぱいになっているもの、という表現です。

逆に詩編11の「(主は)逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をそのに注がれる。」とか。
イザヤ書51章の「見よ、よろめかすをあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を、あなたは再び飲むことはない。」とか。
これらの個所では、杯は罪や、主の裁きを象徴しています。

 杯というのは、本当にただの入れ物。よいものが入れられて渡されたり、よくないものが入れられて渡されたりというたとえにつかわれてるわけです。
じゃあ、ここでイエス様が言ってる杯はどちらだろうというと、イエス様が「わたしからとりのけてください」というくらいだから、よいものじゃないよね。この杯というのは、今これからイエス様が父から受け取ろうとしている、十字架の苦しみと死のことです。

ということは、イエス様は「十字架の件はナシにしてもらえないですか」って父に相談してるんだね。

イエスにとっての、十字架の意味

 ぼくたちの罪をゆるすために、イエス様のほうから十字架に向かっていったはずなのに、どうしてこんなことを言い出したのだろう。やっぱりイエス様も、死ぬのが怖くなったんだろうか。

ぼくは子供の頃から、これがナゾでした。
ふつうは、死ぬのは怖い。でもイエス様は、十字架で死んだあと三日目に自分がよみがえることを知っていた。
死ぬのが怖いのは、死んだあとどうなるかわからないからだし、だから死んだらもうおしまいだと思ってしまうからだと思う。でもイエス様は、死んでおしまいじゃないことを知っていた。
だったら、イエス様の場合に限っては、「死ぬことそのもの」が怖いというのは違うんじゃないだろうか。

 じゃあ、死ぬってどういうことなんだっけ?

聖書は、「死」は「罪の結果」だと言ってる。
「罪が支払う報酬は死です」ってはっきり言ってる(ローマの信徒への手紙6:23)
ところが聖書は、イエス様には罪がなかったということもはっきり言ってる(ヘブライ人への手紙4:15)。
死が罪の結果で。
イエス様には罪がなかったということは。
イエス様は死ななくていい、不死身の存在だったということになるよね。
イエス・キリストが神だというのは、「人間が神様になった」んじゃないんだ。「神様が人間としてこの世に来た」んだ。神である主には罪はなく、永遠の昔から永遠の未来まで死なないどころか何も変わらずに生きているんだ。

なのにイエス様は十字架で死ななければならない。

死ぬというのは罪の結果なんだよ。つまり、神様から「罪があるもの」として捨てられるということなんだ。罪のために神様から切り捨てられるというのが死なんだ。

イエス様は、自分が死んでも生き返ることを知っていたんだから、死ぬことがいやだったんじゃないんだよ。
死=父なる神から「お前は罪がある」と言われて捨てられること。それがイエス様は、死ぬことよりいやだったんだ。

ぼくたちは、「神から捨てられるという恐ろしいこと」より先に、「死ぬこと」のほうがリアルで、恐ろしくて、悲しいことだと思ってしまう。
でもイエス様は、死ぬことよりも、死が意味している「父から捨てられること」のほうが、リアルで、恐ろしくて、悲しいということを知ってるんだ。

死んだって、三日目にはよみがえる。
それよりも、たった三日でも、いやたった一日、たった一秒でも、「父から捨てられる」ということは耐えられないことだった。
だからイエス様は、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」って、「私の神様、私の神様、なぜ私を見捨てたのですか」って叫ぶんだ。
これは、死ぬことを「見捨てた」ってたとえてるんじゃないんだよ。死ぬことよりも、神から見捨てられることのほうが恐ろしいことなんだ。

聖書には、死んであの世にいっても主はそこでともにいてくださるって書いてある。

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府(あの世)に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。

詩編139:8

だからぼくたちは死ぬことを恐れなくていい。
でも主に捨てられたら、もう主はともにいないんだよ。

 イエス様が十字架で死んだというのは、それくらい重い意味があるんだ。
本当はぼくたちが、自分の罪のために、神様から捨てられるはずだった。
でもイエス様は、死ぬことよりも恐ろしくて悲しいことを、ぼくたちのかわりに引き受けてくれたんだ。

 イエス様は、「この杯を取り除いてください、十字架であなたから捨てられるなんて恐ろしいこと、悲しいことを、取り除いてください」って言ったんだ。

お心のとおりに

でもイエス様は、「できることなら、十字架はナシで」に続けて、「私が願ったとおりにではなく、父よ、あなたのお心のとおりにしてください」って言ったんだ。 

ある意味、これはちょっとずるい。
だって、父なる神様だって、イエス様を十字架で捨てたりしたくないんだ。父にとってイエス様は「愛する御子」なんだから。父なる神にとっても、神の子イエス様を十字架で捨てるというのは、耐えられないほど悲しいことだったんだよ。
お父さんが「本当は息子にそんなことしたくない」と思ってることを、息子から「ぼくもこれはどうしてもイヤだ。でもお父さんがそうしたいって思うなら」て言われたら、父は苦しいよね。

けど父はそれでも、ぼくたちのために、罪あるすべての人のために、イエス様から杯を取り除かないで、御子キリストを十字架で捨てたんだ。
それくらいぼくたちは、イエス様からも、父からも愛されてるんだ。

誰かのために自分の命を投げ捨てられる人なら、いないことはないです。特に日本では、殿様の名誉のために家来が進んで自分の命を捨てるのだって、珍しいというほどじゃなかった。第二次世界大戦でも「故郷や故郷の家族を守るために」と言い残して死んでいった軍人たちもいた。

だけど、誰かのために自分の子の命を投げ捨てる人なんていうのは、たぶんいないんじゃないかな。
聖書の中では、アブラハムが神様から言われて息子イサクの命をささげようとしたできごとがある。
日本でも物語の中でなら、江戸時代の「菅原伝授手習鑑」という物語の中で、他人の子供の命を守るために自分の子供を身代わりにするというストーリーがあるけれど。
現代に実際にそんなことを、誰かを助けるために自分の子供の命を犠牲にするなんていうことをしようとしたら、それはゆるされないというか、頭がおかしいよね。
でも、父なる神はぼくたちのために、御子イエス・キリストを十字架で犠牲にしてくれた。それくらい父はぼくたちを愛してくれている。

すべてはぼくたちみんなのため

イエス様は神様だから十字架なんてこわくなかった、なんてことはない。
イエス様は神様だから、死ぬことよりも父から見捨てられることの方が恐ろしいことだって知っていた。
それでもイエス様は、ぼくたちの罪がゆるされるために、十字架で父から「罪がある者」として捨てられることを選んでくれた。

イエス様にそこまでしてもらわないといけないほどぼくたちには罪があったということ、
イエス様にそこまでしてもらえるほどぼくたちは愛されていること、
イエス様の十字架が自分のためだったと信じることで、ぼくたちの罪は十字架のイエス様によってゆるされること。

これを絶対に忘れないでください。

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