信仰について-キリスト(その2)【バプテスト初歩教理問答書】
キリスト教の教理問答書を読んでみるシリーズです。
これが正しいというのではなく、いちクリスチャンとして好き勝手に思うこと感じることを書いています。
引き続き『バプテスト初歩教理問答書』(1979年)から、
「Ⅱ信仰について」の「(3)キリスト(35-54問)」より、
予言者、祭司、王であるキリストについての部分です。
Ⅱ信仰について (3)キリスト -その2
第40問、預言者、祭司、王なるキリスト
聖書箇所はそれぞれ、キリストが「預言者」「大祭司」「王」であることを示す。
使徒の働き3:21-22は、キリストが「モーセのような預言者」であるという個所。旧約聖書の預言者の中で、神と顔を合わせて語らったのはモーセだけ(出エジプト記33:11)。といっても実際にはモーセも主を見ることはできなかったので、これは物理的な意味ではない「近さ」を表現しているものだと思うけど、キリストはまさに神と顔を合わせる存在。
ヘブル人への手紙5:5-7は、キリストが「メルキゼデクのような祭司」であるという個所。
メルキゼデクはアブラムの時代に唐突に登場する祭司王(創世記14:18)なので、レビ族でもアロン家でもなく、アブラハムの子孫イスラエルでもない。キリストも、家系や血筋によってではなく、ただ神にのみ由来する大祭司。
イザヤ書9:6-7は、キリストがダビデの王座についてその王国を治めるという個所。
第41問、キリストは予言者?
邦訳聖書の言葉では「預言者」だけどこの問答書ではキリストを「予言者」としています。
予言とは「予め(あらかじめ)告げる言葉」
預言とは「神から預かった言葉」
と説明する人がいる。国語辞典でもキリスト教用語としてそのように説明されたりする。
でもこれは不正確。
もともと「豫」という字があって、「予」は「豫」の略字、「預」は「豫」の異体字。つまり「予」と「預」は、形が違うだけでもともと同じ字、ということは意味も同じです。
「預」は「あらかじめ」という意味から「先に準備する」というニュアンスがあります。また、関わるという意味の「にあずかる」という使い方もできます(「与る」と書く「あずかる」)
日本では、おそらく「先に準備する」から「預金」などの言葉が生まれ、また「にあずかる」を勘違いして「をあずかる」という使い方になったのでしょう。
予言は「あらかじめ」で、預言は「あずかる」という使い分けは、日本のキリスト教でしか通用しない言葉遊びなんですね。
それに、キリストは神で、預言者とは「神の言葉を預かる者」で、キリストが預言者だとすると、「キリストはキリストの言葉を預かる者」となってしまう。
「預言」を「神の言葉を預かる」と解釈するなら、キリストは「預言者」ではなくなってしまうし、邦訳聖書でキリストを「予言者」ではなく「預言者」としている箇所はすべて、キリストが神であることを否定している誤訳ということになってしまうんですよね。
(三位一体論を絡めるとさらに収拾がつかなくなる)
第42問、預言はすたれていない
問答は「世の人は神の御心を知らないので、神と人との間に立つ預言者としてキリストが来た」と言いたいのだろうけど、でも聖書箇所の「この方」は明らかにキリスト自身なのでおかしい。
ところで、「私たちには、神の言葉である聖書が与えられているので、もはや預言者は必要なくなった」と主張する人たちもいます。たとえば第1コリント13:8に「預言ならすたれます」とあるのが根拠だと言うのですが、この言葉には次のように続きがあります。
でも、「完全なもの」は現れたのでしょうか?
聖書が「完全なもの」なのか?
旧約聖書の範囲さえ、39文書のみとするか、旧約聖書続編または第二聖典と呼ばれる諸文書を含めるか、統一した結論に至ってないのに?
西暦397年のカルタゴ教会会議で「新約聖書の範囲は27文書」と西方教会が承認した時点が「完全なものが現れた」時ですか?東方教会では10世紀になってからだし、「いやまだ確定していない」という立場もあります。シリア教会、コプト正教、エチオピア正教では27文書より多かったり少なかったりします。
こんなにも、教会によって「何が聖書か」がバラバラなのに、聖書があることをもって「完全なものが現れた」は無理がありません?
そもそも聖書自体が、完全なものの「一部」でしかないと思います。
すべてが聖書に書かれているのでないことは、聖書自身が証言している(ヨハネ福音書21:25)。神が「人が地上で生きているうちに知るべきこと」としたことしか、聖書には書かれていないと考えるべきではないでしょうか。
だとしたら「完全なものが現れたら」とはいつのことなのか?
「人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来る」(マタイ24:30)すなわちキリストの再臨の時でしょ。
預言がすたれるのはその時です。キリストの民がキリストとともに永遠に住まう世界で、人が預言する必要がありません。逆にその時までは、預言がすたれるわけにはいかないでしょう。
預言がすたれていないと言える理由は聖書にもあります。
まず、キリスト自身が「偽預言者たちに用心しなさい」と教えている(マタイ7:15)。
預言がすたれたのなら、ニセ預言者を警戒する必要はありませんね。預言者を名乗った時点で、すべてニセ預言者ですから。つまりキリストは、警戒するまでもないことを警戒しろと教えたことになります。でもそうではなく、キリストの再臨まで預言はすたれないからこそ、ニセ預言者にも用心しなければならないのです。
パウロも、「預言することを熱心に求めなさい」とすすめた上で、ニセ預言者への用心として「二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい」と指示しています(コリント第一14:1,29)
私自身は預言の賜物を受けていませんが、聖書に書かれていることによって、「預言はすでにすたれた」は間違いだと言い切ることができます。
第43問、キリストは執り成す
祭司とは、民と神の間に立って、民のためのいけにえを神にささげる職務です。祭司自身のためのいけにを神にささげることもあります。
ところで挙げられている聖書箇所は、キリストが自分をいけにえとしてささげる者であるという個所です。祭司は自分をささげることはしませんから、これらの個所は「キリストは祭司ではない」という意味にも、「キリストは破天荒な(前例がない)祭司だ」という意味にも取れてしまいます。
そうすると、どちらの意味であるかの問答がさらに必要になってしまうので、この43問は第40問の「キリストが祭司」の聖書箇所ありきです。
ところで祭司は、神にいけにえをささげるのが唯一の仕事ではありません。もしそうなら、ただ一度の十字架によって、祭司の働きは終了となります。
でも祭司にとって、いけにえをささげるのは「手段」であって、その目的は「民の罪が赦されるように、神にとりなすこと」です。
この意味で、キリストは十字架のあがないを完成させたあとも今に至るまで、祭司として働いておられます。次のように書かれています。
第44問、執り成しが必要
この問答と聖書箇所も、ちぐはぐですが。
私たちには罪があるので、罪のゆるしが必要です。
罪がゆるされるために、欠点の無いいけにえとしてキリストが十字架で命をささげられる必要があります。
挙げられている聖書箇所は、「祭司としてのキリスト」というより、「いけにえの小羊としてのキリスト」の必要ですね。
次回は
長くなったので、「王であるキリスト」から次回に。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?