キリストvs悪魔 2ターン目【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #11】テキスト版
「でもクリ×聖書」第11回は、マタイによる福音書4章のイエス・キリストと悪魔のバトルから、その第2ターンです。
動画版をYoutubeに公開しているので「読むより聞く方が」という方は↓をどうぞ。
悪魔、2ターン目
第1ターンで悪魔は、イエスが四十日四十夜の断食明けで空腹でいるところに、「石をパンに変えて食べればいいじゃん」と誘惑しました。
それをイエスは、聖書の言葉を引用して、悪魔の攻撃を打ち返したわけですが。
悪魔は第2ターンで、イエスを聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせてこう言ったんですね。
あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。
『神はあなたのために御使いに命じられる。
彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』
と書いてあるから。
(マタイ4章6節)
今回も「あなたが神の子なら」と、得意技「疑念を持たせる」を発動してますね。
まず、新約聖書で「と書いてある」とあったら、それはユダヤ教の聖書、キリスト教でいう旧約聖書に書いてあるという意味です。
なんと悪魔が聖書を引用してるんですね。
1ターン目でイエスが聖書の言葉を武器に悪魔の攻撃を弾き返したら、2ターン目は悪魔が同じ武器を出してきたわけです。
これ、イエスどうするんだ、と。
その前に、悪魔が聖書を引用するのかよ、と思われるかもしれません。
悪魔というのは、聖書や十字架を突き付ければそれで退散してくれるような、お手軽なザコキャラではないんですね。
キリスト・イエスの名前を出せば、それで悪霊が恐れ入ってくれるというのでもないということでは、新約聖書第5巻「使徒の働き」におもしろい記録があります。使徒パウロ(聖パウロ)が悪霊憑きに向かって「イエスの名によって命じる。出ていけ」などと命じると、憑かれた人から悪霊が出て行ったのですが。
ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
…すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、お前たちは何者だ」
そして、悪霊につかれている人が彼らに飛びかかり、皆を押さえつけ、打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家から逃げ出した。(使徒の働き19章13節-16節)
悪魔というのは、イエスの名前を出せば自動的に退散するというのでもないわけです。
脱線:悪魔祓いと祈祷書の話
映画なんかで、エクソシスト、日本語だと「悪魔祓い師」とでもいえばいいでしょうか、カトリックには正式な訳語があると思いますが、そういうプロが悪霊を追い出すとき手にしているのは、あれは聖書ではなく祈祷書なのだそうです。
祈祷書とは、祈祷文=祈りの文章が載っています。
ただ、祈祷書そのものがマジックアイテムというわけじゃないです。祈祷文も何か力のある呪文というわけでも、魔法を発動する詠唱というわけでもない。
「人が悪魔に向かって祈祷文をとなえる→悪魔が退散する」というシステムではなく、
「人が神に向かって祈祷文を祈る→神が祈りに応え、願いをかなえる」というシステムなのです。神に信頼して祈るなら、悪霊憑きだろうとも、悪魔よりはるかに偉大な神が祈りに応えて悪霊を追い払ってくれる、というわけです。
ただ「マニュアルを読めばモビルスーツを動かせる」みたいな感じで「祈祷文を読み上げれば神を動かせる、使役できる」ということでもありません。
神への愛と信頼がなかったら、AIにラブレターを書かせて音声読み上げソフトに朗読させることで恋を成就させようとするようなものです(ラブレターってわかります?)
祈祷書の祈祷文は、多くの宗教者たちが、何世代もかかって長い年月をかけて、考えに考え、練りに練ったもの。人がヤハウェに奉献するものの中で、もっとも美しく整えられたもののひとつと言っていい。
でも肝心なのは、その「祈りの言葉」に「祈りの心」をこめることです。だから、おさない子供が稚拙な言葉で一所懸命に祈る祈りでも「イエスさまがかなえてくれる」と心から信じて祈るなら、洗練された祈祷文にけして劣るということはない。
などとわかったふうなことを語ってきましたが、実は布忠はプロテスタント系なので、祈祷書とか祈祷文はなじみは無いです。どうしても祈れない状態の時に、カトリックの有名な祈祷文で祈るくらい。
基本的には祈祷文を使わないで、自分の言葉で祈りをつむいで神に差し出すスタイルです。そんな、とても整っているとはいえないシロウト丸出しの祈りも、イエスの名で祈るなら必ずかなえられると約束されている。
でも正直に言ってしまうと、祈ってる最中に「これ、祈ってもどうにもならないかもしれないなぁ」と思ってしまうことも少なくないです。
緊急時ならね、考えたり迷ったりする余裕もなく「神様、助けて!」と祈れるのだけど。
平時だと考える時間がありすぎて、そのぶん余計なところで迷って。「祈ってもどうかなあと思ってる時点で、そんな祈りが聞かれるわけないし」って悪循環に入ってしまう。
「俺みたいな未熟な信仰のやつが祈っても」という邪念をなんとか追い出して心から信じて祈るって、ぼくには難しいです。
もしかしたら、子供の頃はもっと信じて祈れていたかも。
キリスト、2ターン目
話を最初に戻して。
ヤハウェが全能であるというなら、ヤハウェの言葉である聖書は最強の武器。1ターン目でイエスがこの最強の矛を出したら、2ターン目では悪魔が「俺もその最強の矛、使えますけど?」と聖書の言葉を振りかざして来たわけです。
これはイエスも厳しいか?
この悪魔の攻めに対するイエスの一手はこうでした。
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(4章7節)
「神である主」という場合の「主」は、神ヤハウェのことです。
十戒で「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに口にしてはならない」と定められているため、イエスの時代には、ヤハウェと呼ばずにアドナイ(ヘブライ語で「主」という意味)と呼ぶようになっていたらしいです。
実は「ヤハウェ」というのも、おそらくそういう発音だったのだろうといわれているものなんですね。ヤハウェの名を口にしないという習慣が長く続いたために、正確な発音が失われてしまったのです。
そこまで徹底するってすごくないですか。
イエスが引用しているのは旧約聖書の申命記6章16節ですが、ヘブライ語と英語の対訳聖書だとこんな感じです↓(ヘブライ語は右から左へ読みます)
右から4つ目、右から順に英字のYHWHに相当する四文字が神の名で、神聖四文字(ギリシャ語でテトラグラマトン)と言います。これもイエスの時代には、聖書を朗読するときも「アドナイ(主)」と読み替えていました。
上図で文字の上下にある点字のようなものが母音記号ですが、神聖四文字には「アドナイ」の母音記号がふってあります。これをこのまま、YHWHにアドナイの母音希望と思って読むとイェホヴァに近くなってしまいますが、これは誤読。このまま読むんじゃなくて「アドナイ」と読み替える。
昔は「エホバ」が神名だと勘違いされていましたが、これは誤読であって「エホバ」なんていう言葉はないんです。
2ターン目の勝敗
聖書を引用して「こう書いてあるんだから、試してみなよ」と打ち込んだ悪魔に対し、イエスは聖書を引用して「神を試すな、とも書いてあるぞ」なのだから、このターンの勝敗は言うまでもないですね。
悪魔が引用した箇所は「もしそんなことになっても神が守る」ということ。「本当に守ってくれるかためしてみよう」というのでは神ヤハウェを信頼してないということだから、そんなことはしちゃいかんと聖書に書いてあるぞ、ということですね。
聖書を引用する時には
2ターン目の悪魔のように聖書の中から「自分に都合のよいセンテンス」だけを持ってきてしまうのは、クリスチャンもよくやってしまう「あるある」です。
たとえば「十戒で、殺してはならないと定められているではないか。だから戦争は罪だ。絶対反対」とやってしまいがち。
でもそうすると「殺すのが罪なら、反逆したイスラエルを大量に殺したり、イスラエルの敵を奇跡で大量に殺したり、イスラエルに戦争を命じたりしてる神ヤハウェが罪深いということになるじゃないか」となってしまう。
どちらも聖書を引用してるのだから、引用している言葉は間違いではない。けど、引用の仕方が間違っている。
聖書は、聖書全体から、なんと言ってるかが重要。
さっきの例だと、確かに「殺してはならない」と書いてあるけれど、でも聖書は戦争を禁止してはいない。「殺してはならない」というのも英語でいえばマーダーにあたるものを禁じているのであって、すべてのキルを禁じているわけではない。戦争で兵士が兵士を殺すこととか、過失によって死なせてしまった場合とか、法に則って死刑にすることなどを、この「殺してはいけない」は禁じていない。
一方で聖書では、「平和を実現する者は幸いである」とか、「平和を求めてこれを追え」など、積極的に平和を構築し維持することを命じられているんですね。反戦平和というならこれらを引用してくるのでないと、十戒の「殺してはならない」から反戦平和を論じるのはムリ筋なんです。
意見には個人差があります。上記はいちキリスト信徒の見解であって、これがキリスト教の統一見解だというつもりはありません。
余談の余談になりますが、平和ということでいうと、キリストが再び来るまで戦争は無くならないということも聖書に書いてあるんですよ。
これ、ひどくないですか?
キリストが再び来るまで、私たち人間には戦争を無くせない、と聖書は言っている。にもかかわらず「平和を求めてこれを追え」って、どんな無理ゲーですか。
でも聖書を聖典としている以上、「戦争を無くすことは人間にはできない」と言われてるからといって、「平和を求めてこれを追え」をあきらめていいということにはならないんですね。信仰って、「できるからやる」じゃなくて、「神が言っているからやる」だから。
次回は
イエスと悪魔のバトルは3ターン目まで1回でと思ってたのですが、脱線が多いせいか、今回は2ターン目までで区切ります。
ふつう、こんなにこまかく刻む箇所じゃないと思うのだけど。
次回、第3ターンでは悪魔は、キリストが世に降臨した目的そのものゆさぶるというすごい攻撃。はたしてイエスは。お楽しみに。
では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。