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「私」を黙らせて「主」を待ち望む【詩編131】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の原稿を再構成したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕

都にのぼる

今日は詩編131です。これには「都に上る歌。ダビデの詩」という題がついています。
「都のぼり」というのは、イスラエルの三大祭りのときに、イスラエル人が国中から、エルサレムの神殿に集まることです。

イスラエルにはたくさんの祭りがあって、今も大切にされていますが、その中でも特に三大祭というのがあります。主がイスラエルをエジプトから救い出したことを記念する「過ぎ越しの祭り」と「仮庵の祭り」、そして「ペンテコステ」の三つです。ペンテコステは聖書で「七週祭」「五旬祭」とも読んばれています。
旧約聖書で神様が、この三つの祭りの時には私の前に進み出なさい、と命じています。それでイスラエルの人たちはエルサレム神殿へとやってくるのです。外国に住んでいるイスラエル人も帰ってきます。

イエス様が十字架にかけられたのは、過ぎ越しの祭りのときでした。なのでエルサレムには、世界中に住んでるユダヤ人が集まってきていたのです。イエス様の代わりに十字架をかついだキレネ人シモンという人も、キレネから祭りのために帰国したユダヤ人でした。
(使徒13:1に出てくる「ニゲルと呼ばれるシメオン」と同一人物という説もあり、その場合ニゲルは「黒」の意味なのでアフリカ人だろうという説もあります。ただシモン(シメオン)は旧約聖書に由来するユダヤ人男性の名前です)

新約の時代には、ペンテコステの祭りの日に、弟子たちが聖霊を受けてイエス様を伝えるようになったできごともおきました。その場面では、当時の世界中の地名があげられて、そこからきたユダヤ人やユダヤ教に宗教を変えた人がそこにいたと書かれているので、世界中のユダヤ人や、外国人でユダヤ人の神を礼拝しに来た人たちが都のぼりに来ていたことがわかります。
パウロも、イエス様を伝えるためにローマ帝国をあちこち旅行して回っていた時に、ペンテコステの祭りに参加しようと急ぎました。

パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭(ペンテコステ)にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。(使徒20:16)

それくらい、この三つの祭りをユダヤの人たちは大切にしていたんですね。

都のぼりの歌

詩編120から134までの15曲は、そうやって祭りのときにエルサレムに上っていくときに人々が歌った、都のぼりの歌なんです。

都のぼりは、歩いての旅でした。ガリラヤ地方から、ユダヤ地方のエルサレムの神殿までは、大人の男でもまる二日かかりますが、どうせみんな祭りに行くのだし山賊対策などもあって親戚など大勢でぞろぞろ歩いていきました。子供も一緒の集団だと五日間くらいかかったと考えられるそうです。
イエス様が子供の頃に都のぼりしたとき(イエス様が迷子になったエピソードね)、帰り道を一日歩いたあとで、マリアはイエスがいないことに気付いた。親戚と一緒に歩いていると思ったのにって書いてある。「ナザレ村ご一行様」はかなり大勢だったんだろうね。

15曲の都のぼりの歌は、詩編の中では短いものが多いです。
聖歌隊などのプロが歌うの比べると、素人が大勢で歌うには短い歌のほうがいいよね。最近のワーシップソングでも、短い歌詞を繰り返して歌うスタイルが多いけど、これは初めてその歌を歌う人でもすぐにおぼえて一緒に歌えるのがいいんですよ。「いい歌だけど長い曲」だと、4番を歌ってる頃には1番の歌詞はもうどこかいっちゃってたりしない?
都のぼりの歌の短さも、エルサレムまで歩いていくときにみんなで歌った賛美なんだろうなって想像できるわけです。

主のまえに進み出る楽しさ

三大祭でエルサレムに行くことは、聖書で神様が決めている法律でした。でも「行きたくないけど、行かなきゃいけないから」という感じじゃなかったと思うんだ。
特に子供たちはね。イエス様が子供の頃は、ニンテンドースイッチも持ってなかったし、インターネットもなかった。自分の村にいて大人の手伝いをしながら毎日おなじ日々が続いていく中で、エルサレムまで旅行してお祭りに参加するほうがぜったい楽しいじゃん。それは大人たちも一緒。

そして15の詩編は、主を喜ぶことや、主の家つまり神殿に行くことの喜びがたくさん歌われている。もし都のぼりが「めんどくさいけど神様の法律で命じられているから」だったら、こんな楽し気な歌を歌いながら行けないと思う。

ところで、ぼくたちが礼拝に行くとき、こんなにわくわくしているかな。「やったー!お祭りだー!エルサレムに行ける!早く神様を礼拝しよー!」みたいな感じで
「やったー!日曜日だー!教会に行ける!早く神様を礼拝しよー!」って思ってる?
イエス様が子供の頃と違って、今はニンテンドースイッチもあるしインターネットもある。クラブ活動とかもある。ぼくが子供の頃はインターネットもニンテンドースイッチもなかったけれど、でも礼拝より楽しいことはいっぱいあったし、礼拝はあまり楽しいと思ってませんでした。

でも、たくさんの「楽しい」をくださった神様を礼拝することを「楽しい」って思えたら、もっとすてきだよね。
今日は131編だけど、15曲の都のぼりの歌も見てみてください。このころの人たちは礼拝しにいくのを楽しんでいたんだろうなってわかると思います。

詩編131編

詩編131は、ぱっと見では「わくわく」という感じではないと思うかもしれません。
まず読んでみましょう。例によって、神様の名前が出てくるところを新共同訳聖書では「主」に変えています。イエス様の時代には、聖書で神様の名前が出てくるところは「主」という意味のアドナイに読み替えていたようなのだけど、この歌が作られたころには神様を名前で呼んで賛美していたので、「主」を「ヤハウェ」に直して読みます。(上記の動画でもヤハウェと呼んでいます)

都に上る歌。ダビデの詩。
主(ヤハウェ)よ、わたしの心はおごっていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大き過ぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

わたしは魂を沈黙させます。
わたしの魂を、幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。

イスラエルよ、主(ヤハウェ)を待ち望め。
今も、そしてとこしえに。

前半は、「神様にそんな素晴らしいことは期待しません」って思えるかもしれないけど、もちろん賛美でそんなことを歌うわけないです。
じゃあどういうことかというと、「心はおごっていません」というのは、「私は、私の心を高くしません」ということ。「神様の心」よりも「私の心」を高くする、なんていうことはしませんと言ってるのだと思う。
その次も同じように、「神様が見せようとするもの」よりも「自分が見たいもの」を見るようなことはしませんということ、「神様がしてくださるすごいこと」を無視して「自分が考えるすごいこと」を追い求めたりしませんということ、なんだと思うんです。

否定の言葉を続けることで、「だって、神様が与えてくださるもの、神様がしてくださることは、ずっとずっとすばらしいのだから」という「わくわく」を歌ってるんだと思う。

わたしが考える「大きすぎること」

イスラエルはエジプトで奴隷にされた。超大国エジプトに支配されてどうしようもなかったときに、神様がとんでもないやり方て救い出してくれた。

バビロンに捕囚になったのは、神様に背いたせいだった。当時バビロン(新バビロニア帝国)は無敵の強さに思えた。なのにペルシャがバビロンを倒して、しかもペルシャの王様がユダヤ人を自由にして「エルサレムに帰ってお前たちの神様を礼拝する神殿を直せ」なんて言った。

イエス様の時代より100年くらい前にはシリアに征服されて、エルサレムの神殿にもシリアの神像が持ち込まれてけがされた。それでも神様はシリアに勝たせてユダヤを独立させてくれた。

でもそんな歴史が続いてきた中で「ローマに支配されて、もうどうしようもない。でも主がローマ軍をやっつけてくれる」という期待をするようになった。「神様が約束してる救い主メシアって、そういうお方でしょ。メシアがローマ軍をやっつけるんでしょ」と思ってた。
そのせいで、「ローマ軍から」じゃなくて「罪から」救うためにやってきたイエス様が本当の救い主だってことがわからなかった。

自分の思いで「どうなったらいいか」ばかり考えてると、神様がどうしようとしているかがわからなくなってしまうことがある。
そこをこの詩人は「私は私の心ばかり高くしたり、高望みしたり、大きすぎることをばかり勝手に期待しません」と歌ってるんだと思う。
次の段落も、神さまが何をしようとしているのかを期待して待つために、私の魂はだまらせておきます、ということだと思うんだ。

考えるということは大事。でも、いろいろなことを考えすぎると、こんがらがってわからなくなってえしまうということもある。
パニック映画でよく「どうなってんだ!」とか騒いでるだけの人っているでしょ。なんか偉そうな人が「責任者を出せ」とか大騒ぎしてて、でもだいたいそういう人は余計なことをして映画の最初のほうで死んじゃう。
でも、心配がある時ほど、どうしたらいいかわからないときほど、黙ろう。泣き叫んでいた小さな子がママに抱っこされたら安心して泣きやむようにわたし(たち)は、神様に守られているのだから安心して、だまって神様にまかせていよう。

それで最後に、「わたし」はイスラエルにむかって、「ヤハウェを待ち望め」と言おう。わたしが「どうなんてほしいか」を考えるのではなく、主ヤハウェが何をするかを見ていよう。
出エジプトのとき、前に海、後ろにエジプト軍という絶体絶命の場面で人々がモーセに「私たちはどうなるんだ!ヤハウェは私たちをここで殺すためにエジプトから連れ出したのか」と言ったとき、モーセは「主があなたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と答えました。そして人々が静かに待っていると(といっても、待ってることしかできなかったんだけどね)、主は海を真っ二つに割ってイスラエルを救った。人間が考える「大きなこと」よりもっとずっと「大きなこと」をしてくださる神様が、ぼくたちについてる!

ぼくたちは、主を待ち望もう。主は必ず、よいことをしてくれる。
今も、これからも、永遠に、主が何をするかをぼくたちが決めるんじゃなくて、主がしてくださることを待ち望もう。
じゃ、また来週。

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