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あきらめずに祈る~悪徳裁判官のたとえ【ルカ18:1-8】【やさしい聖書のお話】

2023年3月5日の聖書のお話です。

悪い裁判官のたとえ

あるときイエス様は「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」こんなたとえを話しました。

「ある町に、悪い裁判官とやもめ(旦那さんが死んでしまった女)がいた。
やもめは裁判官のところに来て『私を苦しめる人を有罪にして、私を守ってください』と頼んだ。」

悪い裁判官とやもめ

「悪い裁判官はこの女を無視した。
でも彼女は裁判してもらう以外に助かる方法がなかったので、毎日裁判官のところに来て『助けてください』と願い続けた。
裁判官はこう考えた。
『わたしは神も恐れないし、人を人とも思わない。しかしあの女はうるさい。しつこい。うざい。うっとうしい。
仕方ないから裁判をしてやろう。どっちが正しいかなんてどうでもいいから、彼女のためになる裁判をしてやる。でないと、いつまでもしつこくしつこくしつこくしつこく。あー、もうっ!』」

正しい裁判とは

不思議なたとえばなしでしたね。
でも今の日本でも、悪いことをした人について「犯人がかわいそうじゃないか」と声をあげる人たちがいますよね。
「動画で目立ちたいから」といってとんでもないイタズラした人を「未来があるんだから」とか。
国会議員を殺した人を「今までかわいそうな生き方だったんだから」とか。

まあ日本は法治国家といって、裁判も法律にもとづいておこなわれます。国民の感情に従うような裁判をおこなう、情治国家と言われるような国もありますが、一応日本はそうではない。

聖書でも、強い人のためにも弱い人のためにも裁判を曲げてはならないというおきてがあります。「かわいそうだから」で弱い人をひいきすることはできません。

あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。

レビ記19:15(新共同訳)

ところが。
今日のたとえ話に出てくるのは「悪い裁判官」です。何しろ、自分で「神を畏れない」と言うほど。

畏れ(おそれ)とは

新共同訳聖書では「畏れ」という字が使われています。この漢字は上が鬼の頭、下が虎を表していて、鬼の頭と虎の爪を持つようなおそろしいものを表すと解釈されます。「大きな頭をした鬼が武器を手に持っておどす様子」を表すという解釈もある。
確かに聖書の神様は、それくらいおそろしい存在です。だけどそんなおそろしい神が私たちを愛してくれている、ということを聖書は伝えているわけです。

漢字辞典『漢辞海』の「畏」の説明
漢字辞典『新版漢字源』の「畏」の説明

でもこの裁判官は自分で「自分は神をも畏れない」と言っている。正義なんてどうでもいいんですねこの裁判官は。

イエス様はこのたとえ話のあと、弟子たちにこう教えました。
「神をも畏れぬ裁判官でも、しつこく頼み続けたら、もっとも弱いものの願いを聞いて助けようとする。
ましてあなたがたを愛している天の神は、昼も夜も叫び求めている神の民のために、裁きをおこなわないということがあるだろうか。
そんなことはありえない。はっきり言っておくが、神はすみやかに裁いてくださる」

祈りにならなくても

イエス様は『気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため』にこのたとえをしました。
でもイエス様はたとえ話のあと「祈り求める選ばれた人たち」と言わずに、「叫び求める選ばれた人たち」と言ってるんだ。

ぼくたちは、苦しいときほど神様に助けてくださいと祈った方がいい。神様にはぼくたちを助ける力がある。
でも実際、苦しい時ほど祈れなくなるということがあるんだ。でもそれでいい。祈りというかたちになってなくても、叫び求めるだけでいい。
聖書にも例があるんだ。イスラエルがエジプトで奴隷になっていた時、イスラエル人は祈らなかった、いや、祈れなかった。

イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神にとどいた。

出エジプト記2:23(新共同訳)

でも主はモーセをエジプトに遣わすときこう言った。

見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。

出エジプト記3:9(新共同訳)

「祈った」なんて書いてないんだ。イスラエルは叫んだだけ。しかも「神に向かって」叫んだとも書いてなくて、ただ「叫んだ」なんだ。それでも、その叫びは、神である主に届いた。主は彼らを救うために動いた。
ぼくたちの神様は、ちゃんと正しく呼んで祈らないと届かないなんてことはない。異世界ファンタジーの、正しく呪文を詠唱しないと発動しない魔法とは違うんだ。

神様は君を愛している。そのことを君は知ってる。だから、「神様」とか「天のお父様」とか言わなくても、叫びは届くんだ。
君がお父さんと町を歩いているとしよう。何か事件か事故が起きたのに巻き込まれたとして、君が「助けて」って叫んだとする。君のお父さんは「助けて」じゃなくて「お父さん助けて」って言わないと、なんてことはないよね。
君を愛している天の神様も同じなんだ。

ふだんは天のお父様とか、私の神様って呼ぶのがいい。イエス様がそうしたからね。
でもそんな余裕がない時でも、神様はぼくたちの祈りを、祈りにならない叫びやうめき声を、ちゃんと聞いて助けてくれる。

だからあきらめずに祈り続けろ、叫び求め続けろ、とイエス様は教えたんだ。
神様に助けを求めないというのは、「神様にはぼくを助けることはできない」ってあきらめることだからね。
たとえ話のあとにイエス様はこう言ってる。『人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか』って。イエス様が次に来た時、諦めずに神様に叫び求め続けている人はいるだろうかって。

神様は君をあきらめない。
だから君も、神様をあきらめないでほしい。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年3月5日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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