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キリストvs悪魔 1ターン目【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #10】テキスト版

布忠がお届けする「でもクリ×聖書」第10回です。
「聖書にはこんなことが書いてあって、それをクリスチャンはこういうふうに読んでるんだよ」ということを、聖書にあまりなじみがない方むけに、語っています。
気楽にしゃべってるので、気楽に聴いてください。
Youtubeに動画版もあげています。"ながら聞き"できるように語ってるつもりなので、ご多用の方はこちらをどうぞ。

今回は、マタイによる福音書4章1節から。

今回のあらすじ

イエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊=聖霊に導かれて荒野(あらの)に行って、40日40夜の断食をしました。
すると悪魔が近づいてきて、イエスを三度誘惑する、という場面なのですが、この3回にわたる攻防はかなり見ごたえのあるバトルなので、今回は1ターン目までで区切ります。
その前にまず「聖書でいう悪魔」についてですが。

悪魔とは

キリスト教では悪魔というのは「堕天使」、天から堕ちた天使、あるいは堕落した天使ですね。もともと天使だったのが、神ヤハウェにとってかわって自分が神になろうと考え、しかし天から堕とされた、と考えられています。その根拠とされるのが聖書の次の一文です。

明けの明星、暁の子よ。
どうしておまえは天から落ちたのか。
国々を打ち破った者よ。
どうしておまえは地に切り倒されたのか。
おまえは心の中で言った。
私は天に上ろう
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山で座に着こう。
密雲の頂に上り、
いと高き方のようになろう。』
だが、お前はよみに落とされ、
穴の底に落とされる。
(イザヤ書14章12節-15節)

これは新バビロニアの王について預言されている中に出てくる一文なんですね。だから文字どおりには、国々を打ち破った偉大な支配者として「明けの明星」のように君臨している新バビロニアが没落する、という預言ということになるのですが。
いやそれだけではない、と。「いと高き方=ヤハウェに取ってかわろうとして、結果よみ(陰府、冥府)に堕とされた堕天使」と新バビロニアを重ねているんだ、と解釈されるわけです。

さっそく脱線ですが、新バビロニアといえば、最後の王ナボニドゥスの碑文が発見されて、26行におよぶ楔形文字の解析が進められているとか。

旧約聖書の「ダニエル書」5章の終わりに、ナボニドゥスの息子のベルシャツァル王(実際はナボニドゥスの全権摂政)が死んで、新バビロニアが終わりダレイオス(ダリヨス)のペルシャが興ったことが書かれていますが、このナボニドゥス王の碑文から何か新バビロニア末期の時代について新発見でもあれば、それってダニエル書の時代背景の情報が増えるということで、歴史大好きクリスチャンの布忠としてはかなりわくわくしています。
「歴史の事実に照らすと、聖書のここは間違い」と言われていたことが、考古学の成果によって「聖書のほうがあってた。間違ってたのは今までの歴史学だった」てなるというのも、ままあることなんです。

話を戻します。
悪魔というと、全身黒づくめで耳がとがっていて、細い尻尾の先がスペードのかたちにとがっていて、というイメージが流布していますが、そんなものはイメージですね。最近のマンガとかだと悪魔の眷属はしっぽが弱点だみたいな設定がありますが、そんなわかりやすい弱点があったらとっくに駆逐されてます。

キリスト教では、悪魔は神ヤハウェには絶対にかなわない存在であると同時に、人間は悪魔に絶対にかなわない存在である、けれど人間はキリストに帰依することによってのみ、神の権威によって悪魔をしりぞけることができる、と考えます。
ただここがクリスチャンでもわりとね「悪魔なんて大したことない」というイメージを持ってしまったりする。

布忠もそうでした。
子供の頃から教会で聖書のお話を聞かされてきて。「イエスさまは神様だから、イエスさまを信じていれば悪魔も怖くない」と教えられてきて。
確かにそれはそう。ただ、それは「ぼくは悪魔になんか負けない」というのではなくて、「悪魔より強いイエス様から離れちゃいけない」なんですよ。

あと、そもそも悪魔は、悪魔ではなさそうな存在として登場します。
悪魔はヤハウェにとってかわるために、人をそそのかして神にそむかせる存在です。いかにも悪魔という姿で現れたら、誰もそそのかされないでしょ。
悪魔はサタンとも呼ばれていますが、「サタンでさえ光の御使いに変装します」と書かれている(2コリント11:14)。悪魔は天使の姿をよそおうこともできるというのです。

ただ絵画などでは、悪魔を天使の姿に描いたら悪魔だとわからないですね。
フェルナンド・ガレゴが今日の場面を描いた「The Temptations of Christ」では、サタンは賢人のような姿でイエスに近づいていますが、足だけは異世界ものアニメに出てくる魔物のような足で描いて、サタンであることを鑑賞者に伝えています。

フェルナンド・ガレゴ「The Temptations of Christ」

ところで、クリスチャンでも「神の存在は信じるが、悪魔の存在は信じていない」という人は、わりといるのだそうです。これは聞いた話なので、出典も、どういう調査なのかもわからないのですが、でもそう思ってしまうのもわかる気がします。
何しろサタン、悪魔というのは、人間に罪をおかさせようとしてそそのかす者。そのためにはまず、自分の存在をさとられないようにすることが第一でしょう。

新約聖書には、悪霊に取りつかれたという人が何人か出てきます。悪霊というのはどういうものなのかはっきりしないのですが、まあ、悪魔の手下と思って間違いはなさそうです。で、聖書に出てくるそうした「悪霊憑き」というのは「現代でいえば、何らかの精神疾患だろう」と解説する牧師も珍しくない。
確かに、医学や科学が現代ほど発達していなかった時代には、現代なら精神疾患と診断されるような状態がひとまとめに「悪魔に取りつかれた」とされたことは考えられます。
ただ、現代に精神疾患と診断されるすべてが、本当に精神疾患なのか。
診断され、治療を受け続けているのに治らない事例の中には、「実は精神疾患ではなく、悪霊に憑かれている」ということが無いと言えるのか。
いやこれは、文字通り「悪魔の証明」というものですね。それに、治療されるべき精神疾患を「悪魔憑き」として(教会が先頭に立って)差別し迫害してきたのは正しかったなどとは思いません。

ただ。もし私たちが「神というものは存在するかもしれないが、悪魔というのは存在するとは考えられない」と思うなら、それは悪魔が自分の存在を隠すことに成功しているということなのかもしれないとは思います。

キリストvs悪魔・第1ラウンド

さて、悪魔が来て、三度イエスを誘惑しましたが、イエスは三度ともこれを撃退します。
実はこれは、キリストであるイエスと悪魔の最後の戦いというわけではありません。悪魔はしばらく身を引きますが、またあとでキリストに戦いを挑んでくるので、今回は第1ラウンドでしかないです。


そしてどの戦いも、「イエス・キリストが全能の神だというなら、悪魔には勝っちゃうんでしょ」というほど楽勝ではないのです。
というわけでのこの第1ラウンドの、悪魔の1ターン目から見てみましょう。

悪魔、1ターン目

先ほど紹介したフェルナンド・ガレゴの絵が分かりやすいのですが、悪魔はイエスが40日の断食で空腹なところにつけこんで「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と言います。
「神の子」という言い方についてはいずれ説明しますが、ここでは「神の子」とは「神であるキリスト」の別名だと思っておいてください。

で、悪魔のこの言葉は、ボクシングでいう、ジャブからのストレートという感じです。
「もしあなたが神の子であるなら」と、自分が神の子であることを証明しろというジャブを打っておいて、すかさず
「全能の神なら、石をパンにかえるくらいカンタンだろ、やればいいじゃん」というストレートを打ち込んできている。

悪魔というのは「誘惑する者」「そそのかす者」です。神ヤハウェにそむいて罪をおかすように誘導するんですね。
ここでは、直前にヨハネからイエスがバプテスマを受けたときの場面を思い出させながら、悪魔はイエスに「天の父はお前を『これはわたしの愛する子』なんて呼んだが、本当にお前は神の子なのかい?」と疑念を持たせようとしたわけです。

実はこれ、エデンの園でサタンがエバ(イヴ)に禁断の木の実を食べさせようと誘惑したときと同じ戦法です。あのときはヤハウェがアダムとエバに、「禁断の木の実だけは食べるな、ほかはどれを食べても良い」と定めたのですが、サタンは「神はどの木からも食べるな、なんて言ってた?」と、微妙にヤハウェの言葉をねじ曲げながらではあるけれど、神ヤハウェの言葉を疑わせようという作戦でした。
同じようにイエスにも、イエスが父から聞いた言葉を持ってきて、父との関係に亀裂を生じさせようとしたわけです。
天地創造直後から紀元1世紀まで悪魔が進歩していない、というよりは、いきなり神にそむかせるよりも「まず神のことを疑わせる」というのがどれほど効果的な攻撃なのかということでしょう。

さらに、神であるキリストには実際のところ「石をパンに変える」なんて簡単なことです。空腹な人間に「石をパンにかえて食べなよ」といっても、そんなことは不可能だから誘惑にならない。神であるイエスにはそれができるから誘惑として成立しているわけです。

イエス、1ターン目

けれどイエスはこの誘惑を拒絶できました。
確かに自分は、神の身分を離れて人となってこの世に来ているのだから、空腹というものを経験するし、食事でこの肉体を維持しなければならないという不便な状態にある。
ただ、自分(神であるキリスト)がこの世に降臨したのは、罪のために人が神との関係を立たれて、死んで滅ぶしかない状態になっているところに、キリストによって人と神との関係を取り戻し、人が神の言葉によって生かされるように回復されるためなんです。
確かに人には食料が必要だが、食料を摂取するだけでは人として生きているとはいえない状態だ、神との関係を回復して、神の言葉で生かされるのがあるべき姿なのだから、イエスは自分の肉体の維持のために奇跡をおこなうつもりはない、というわけです。
というわけでイエス、聖書を引用して悪魔のジャブ&ストレートをさばきます。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。(4章4節)

これは旧約聖書第5巻「申命記」からの引用です。
あえて肉体をもって世に降臨している以上、40日40夜の断食ののちという状態で、しかもふつうの人間と違って石をパンに変えて食べることができるのにそうしないというのは、めちゃくちゃハードな戦いですが、イエスは聖書を引用して撃退しました。

次回予告

これでひっこむ悪魔ではありません。第2ターンではさらに予想外の攻撃をしかけてくるのですが、それは次回に。
そのときイエスははたして、というのもお楽しみに。

では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様からの平安がありますように。

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