見出し画像

「70週」の預言【ダニエル書9章後編】【やさしい聖書のお話】

天使ガブリエルがダニエルのところに飛んできて、捕囚が終わることを告げたところまでが9章前編でした。
捕囚の終わりの始まり

70週の預言

ガブリエルはさらに「この御言葉を悟り、この幻を理解せよ」とダニエルに語ります。
「お前の民(ユダヤ人)と聖なる都(エルサレム)のために、七十週が定められている」と(ダニエル書9:24)。

そして、その70週が終わると、神に逆らうことは終わり、罪が封印され、永遠の正義が来て、幻と預言が封じられ、最も聖なる者に油が注がれるというのです。
新約聖書に書かれていることと並べると、これらは、終末のときイエス様が再び来たときに実現されることだとわかります。

救い主が赤ちゃんイエス様となって世にきたクリスマスのできごとを「初臨(しょりん)」、世の終わりに再びキリストが来られることを「再臨(さいりん)」と言います。
でもガブリエルはダニエルに、70週間後にイエス様が再臨すると言ってるのでしょうか。クリスマスのできごと、初臨もまだなのに?

70週=7週+62週+1週

ガブリエルは「70週」について、7週と62週のあとに
「油注がれた者が不当に断たれる」
「都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる」
「洪水がある」
「戦いが続き荒廃する」
というできごとがあってから最後の1週が来ると告げます(ダニエル書9:25-26)。つまり連続した70週間のことではなくて、7週と62週と1週に分けられているというのです。

「油注がれた者」というのは、ヘブライ語でメシア、ギリシア語でキリストのことです。王様や救い主が「油注がれた者」と呼ばれます。
でも「油注がれた者が不当に断たれる」というのは、新約聖書も知っているぼくらにしてみたら、救い主イエス様が十字架で命を絶たれたできごとを預言しているよね。
そうすると、エルサレムの都と聖所が、次に来る指導者の民によって荒らされるというのは、イエス様の十字架と復活のあと西暦70年に、ユダヤ戦争の結果ローマ軍によってエルサレムが破壊されたできごとを預言していたとしか考えられない。

で、洪水や戦いというのは、イエス様自身が予告している、再臨の前に戦争や災害があるということ(ルカ21:9-11)に関連してるだろとしか思えない。イエス様の予告には「洪水」は出てこないけれど「大きな地震」があるというから、それにともなって洪水も起きるということ?それはその時がくればわかるのでしょう。

そのあとの1週にはこういうことが起きるとガブリエルは告げている。

彼は一週の間、多くの者と同盟を固め
半週でいけにえと献げ物を廃止する。
憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。
そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。

ダニエル書9:27(新共同訳)

「彼」というのは、断たれたはずの「油注がれた者」のこと。
彼と同盟する「多くの者」というのは、キリストを待ち望んでいた人々でしょう。
そうすると、「憎むべきもの」は「荒廃」にやられて、「荒廃」は「定められた破滅」にやられてしまうというのは、神であるキリストによって悪魔サタンが完全にさばかれることでしょう。

整理するとガブリエルが告げたのはこういうことです。
ダニエルの時代から7+62週後に、油注がれた者(救い主)の受難と、エルサレムの破壊が起きる。
そして災害や戦争のあとにキリストが(再び)来て、キリスト派(クリスチャン)は彼との同盟に迎えられ、敵対する悪魔は地獄に落とされる。

この預言、はずれてない?

 はじめの「7週+62週」という分け方にどういう意味があるのかはよくわからないけど、あわせて69週が過ぎたあとに、油そそがれた者が不当に断たれたというできごとがおきるというわけです。

ただ、このお告げは、ペルシアがバビロンを倒した紀元前539年頃のこと。
69週だと1年半よりも短いくらい。
そしてキリストの初臨つまりクリスマスのできごとは、紀元前7年から紀元前4年頃だろうと考えられています。
紀元前539年の1年半後、紀元前537年のあとに初臨のできごとがっていうと、500年以上もあいだがあいてしまう。

何より、69週後≒約1年半ということだと、この3年後に「70年の捕囚」が終わるよりも前に「油そそがれた者=キリスト」が来ることになってしまう。
この預言、まちがってる?

「週」のなぞ

鍵は「週」と訳されている言葉は、「7のかたまり」という意味なのだそう。つまり「7日」「7個」「7人」「7本」などの意味にとれる。
日本語だけでなく英語など多くの翻訳で「7日」という意味にとって、「7日が70=七十週」と訳している。でもそれだと、預言が約500年もずれてしまう。

これは「7年が70=490年」と読むほうがいい。
聖書には実際に「7年」という単位があります。「7日目は安息日」というのは知ってると思うけど、「7年目は安息年」ということも聖書に決められているんです。
ちなみに聖書には「7年が7回」という単位も出てきます。「7回目の安息年=49年目」の翌年を「ヨベルの年」という特別な年とする決まりがある(レビ記25章)。

ガブリエルの言葉で「7週+62週」というところが、「週(7日間)」じゃなくて「7年間」という意味なら。
{7年という単位が7}+{7年という単位が62}
=49年+434年
=483年
となる。
このお告げが紀元前539年頃だとして、483年後というと、紀元前50年代。イエス様の時代にかなり近くなるね。ユダヤではハスモン家が王権についている時代で、のちに大王と呼ばれるヘロデが青年の頃。
イエス様の十字架のできごと(西暦30年あたりとされる)にぴったり一致と言えないのは、この預言がいつだったのかも、イエス様の十字架のできごとがいつだったのかも、はっきりわかっていないからなんだろうと思う。でも69週(483年)と最後の1週(7年)のあいだはずいぶんあくとガブリエルは言っているので、ガブリエルのお告げは正確だったと言えると思う(少なくとも「週」を7日と解釈して500年もズレるよりは)

全然違うということもありえるけどね(「油そそがれた者」というのがイエス・キリストのことではなかったとか)。ここでは、この預言はキリストのおとずれをガブリエルがダニエルに告げていたと解釈した場合はどうなるのかということを続けて考えてみます。

待っているようで、待っていなかった人たち

紀元前50年を過ぎたあたりから、ユダヤの人たちはこう思わなかっただろうか。「ガブリエルがダニエルに告げた70週(7年×70)のうちの、7週と62週(7年×69)はもう過ぎた。『油そそがれた者が不当に断たれる』できごとはそろそろではないか」 

でもイエス様が来た時、ユダヤの人たちは「油そそがれた者だ」と気付かなかったんだ。イエス様の時代のユダヤ人たちは、油そそがれた者メシアを待ち望んでいたはずなのに。
東の博士たちが来た時、祭司長や律法学者たちは「救い主はベツレヘムで生まれることになっている」と答えたのに、自分たちは救い主を迎えにベツレヘムに行こうとしなかった。「油そそがれた者」が登場したのかどうか、確かめようともしなかったんだ。
のちにイエス様が神の福音を教え始めてからも、彼らは救い主だということがわからなかった。

もしかしたら彼らは「油そそがれた者=メシアが不当に断たれる」というのが理解できなくて(あるいは理解したくなくて)、この預言をあまりまじめに読んでいなかったのかもしれない。
イザヤ書53章にも、イスラエルのために来る「彼」がイスラエルの民から多くの苦しみを受けることが預言されていて、イエス様の受難そのまんまのことが予告されているのだけど、でもイエス様の時代のユダヤ人は誰もこの預言を思い出さなかった。「来たるべきメシアは栄光に輝く偉大な王」みたいな決めつけで聖書を読んでしまっていたんじゃないだろうか。

今、多くの教会で「イエス様が再び来る」ということは知られています。
でも、イエス様が来るのを本気で待ってる教会、クリスチャンはどれくらいいるだろうか。聖書にはっきり書かれている、イエス様自身も予告している「再臨」というできごとが、本当に実現するって本気で待っている人はどれだけいるんだろう。
イエス様が十字架のあとに復活したことも、そのあと天に昇ったことも信じないクリスチャンや牧師もいるくらいだ。そういう人々は、イエス様が再び来るときについてイエス様自身が予告していることも信じられないかもしれない。 

救い主を待っていたはずのファリサイ派や律法学者たちが、実際にイエス様が来た時に救い主だとわからなかったように、
救い主の再臨を待っていたはずの教会が、クリスチャンたちが、実際にイエス様が再び来た時に救い主だとわからないかもしれない。 

でもファリサイ派の中にも、ニコデモやパウロのようにイエス様を信じた人たちもいた。
教会にも、実際にイエス様が来た時に救い主だとわかる人たちもいるはずだ。
だから知っておいてほしいのは、聖書に書かれていることは必ず実現するということです。
「聖書にこう書いてあるのは現実とは思えないけれど、こういう意味だということにしたら、わかりやすいよね」というふうに、聖書に書いてあることをねじまげる必要はありません。預言されていたことが実際に実現した時に「ああ、聖書で予告していたことはこういうことだったのか」ってわかるように実現するから(そうじゃなかったら、預言の実現だってわからない)。

ぼくら人間は、「人間の理性で処理できないことはファンタジー」と思いがちです。それはクリスチャンが聖書を読むときも同じだったりします。
確かに理性というのは、人間への神様からの素晴らしいプレゼントの一つだと思う。でも主は、人間の理性をはるかに超えた存在です。主は、人間なんかが「神様のことはわかった」と言えるようなつまらない存在じゃないんだ。
だから今は、聖書からわかることは素直に受け取ろう。聖書を読んでよくわからないところは、「今はまだわからないだけ」と思って、すべてが実現しするときを楽しみに待つことにしよう。

動画版はこちら

この内容は、2022年9月18日の教会学校動画(後編)の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


いいなと思ったら応援しよう!