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「困難」が「永遠の希望」に【ローマ5:1-11】【やさしい聖書のお話】
2023年5月7日(日)の教会学校でのお話をもとに。
がんばることが尊い?
結果が同じなら、そのためにがんばった人のほうが尊い、がんばらないで結果を出すのはずるい、という考え方の人がいます。
「結果なんかどうでもいい。がんばったということが尊いんだ」と考える人もいる。
確かに「がんばる」そのものに意味がある場合もあります。
化学では、多くの人ががんばった結果「こういう実験は失敗する」ということが確かめられることにも意味がある。
数学では、多くの人が何百年も同じ問題に取り組み続けて「この問題には、答えが存在しないことが証明できた」という結果になるのも意味がある。
でも、その「がんばり」はちょっと、というがんばりもある。
一日分の仕事を一日で終わらせられる人よりも、何日もかかってしまう人のほうが「あいつはがんばり屋だ」と評価されたりする。
「この練習によって、自分の何が伸ばせるのか、どういうところが強くなるのか」と関係なく、できるだけツラい練習を、できるだけ長い時間がんばる選手が「あいつは根性がある」と評価されたりする。
キャッチフレーズはキャッチフレーズ
「練習は嘘をつかない」という考え方が、スポーツや芸事などいろいろなジャンルにある。それで栄光をつかんだ人たちもいるだろうし、そうした実例が指導者たちに「根性論は正しい」と思わせてきたかもしれない。
でも栄光をつかんだごく少数の人たちの背後には、圧倒的多数の「練習に嘘をつかれて指導者につぶされた人たち」がいるんじゃないだろうか。
メジャーリーグで活躍するダルビッシュ有投手は、「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ」と言った。
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ちゃんと頭を使って、適切な方法で適切な量の練習をするのでないと、練習に嘘をつかれて「こんなに練習したのに結果が出ない」とか、「練習しすぎで体を壊して選手生命終了」てことになる。
「信じれば夢はかなう」というキャッチフレーズも、キャッチフレーズでしかない。
将棋マンガ『3月のライオン』で、主人公に敗れた山崎順慶が、こんなキャッチフレーズでは「何もしなくて」「ただ信じていれば」叶うみたいじゃないか、と独白する。
引用の範囲を超えてしまうかもしれないけど、すごく刺さった場面なので紹介させてほしい。山崎順慶が「自分の努力」は「主人公やそのライバルの努力」と比べられるものだったのだろうかと振り返る場面だ。
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「信じれば夢は叶う」
それは多分 本当だ
但し 一文が抜けている
「信じて努力を続ければ夢は叶う」
---これが 正解だ
さらに言えば
信じて
「他のどのライバルよりも1時間長く
毎日 努力を続ければ
ある程度迄の夢は、かなりの確率で」
叶う---だ。
結果を出すための正しい練習、正しい努力なのか。
夢をかなえるために必要なだけの努力をしているのか。
結果につながる道
パウロはローマのクリスチャンにあてた手紙でこう書いている。
苦難をも誇りとしています。
苦難が忍耐を生み、
忍耐が品格を、
品格が希望を生むことを知っているからです。
この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心にそそがれているからです。
「品格」と訳されているのは、「試験済みの信仰と試練を経た真実」というニュアンスなのだそうです。
「自分では、信仰はちゃんとしてるつもりだけど」というものではない、製品を出荷する前の検査をパスしたかのように「大丈夫だということが確認された信仰」ということです。
「希望が失望に終わらない」というのは「そのような希望が私たちをあざむいたり、そのような希望が私たちに恥をかかせたりしない」ということです。
(以上はいのちのことば社『詳訳聖書 新約』の同箇所より)
要するにパウロはこう言いたいのだと思う。
ダメージを受けると、耐久力があがる。
耐久力があがってくると、キャラクターが仕上がってくる。
キャラクターが仕上がってくると、希望を持つことができる。
この種類の希望は「あんなつまらないものにすがったからだ」なんて恥をかくことがない、確かなものだ。
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ただし、すべての練習が結果につながっているのではないように、
信じた夢のすべてが叶うのではないように、
すべての苦難が「裏切らない希望」につながっているのではない。
私たちが受ける苦難が「裏切らない希望」につながっているのは、私たちが聖霊によって神の愛を受けているからなんだ。
神の愛ぬきの「苦難は失望に終わらない」は、「練習は裏切らない」「夢は叶う」と同じただのキャッチフレーズだ。
パウロはこういうことも書いてる。
「競走するなら、勝てるように走りなさい。
わたしは、競走ででたらめな走り方をしたり、
ボクシングで空振りばかりするようなことはしません。
私は、私の体を、私に従わせます」(コリントの信徒への手紙一9:24-27を要約)
正しくがんばろう
間違っていると気づかずに頑張ってる人たちが、たくさんいます。
たとえば、自分はクリスチャンだと思っているのに、聖書に書いてあることとは反対のことを教えたり、イエス様が言ってることとは反対の活動をすることをがんばっている人たち。
なんてむなしい「がんばり」だろう。まるでゴールとは反対方向に走るランナーや、空振りし続けるボクサーじゃないか。
「神さまは、ぼくたちがどんなふうになってほしいと思ってるか」を考えよう。
そのためには、聖書になんて書いてあるかを大切にしよう。
イエス様が「聖書にこう書いてあるではないか」を大切にしたのだから。
イエス様の血でぼくたちは正しい人と認めらて、イエス様によって神の怒りから救われています。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
人間は罪のために神さまとの関係が壊れてしまったけれど、イエス様が味方してくれて、イエス様の死でぼくたちは神様との関係を取り戻せているんです。
(神の)敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
ぼくたちには、イエス様よりすばらしいものは無いし、
イエス様よりすばらしい教えも無い。
もし誰かが、「聖書にはこう書いてある。だけど」というなら、それは聞いちゃいけない。
ぼくたちは「聖書にはこう書いてある。だから」を大切にしよう。「イエス様がこう言ってる。だから」を大切にしよう。
それがぼくたちの、正しい方向に向かっての正しい努力なんだ。
動画版のご案内
このnoteの内容は、2023年5月7日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。