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イエスの教えは旧約律法よりめちゃ難しい【ローマ6:3-11】【やさしい聖書のお話】

2023年5月21日(日)の教会学校でのお話をもとに。

旧約の律法と私たち

旧約聖書にはたくさんの、神様が人間にあたえたルールが書いてあります。
それらをまとめて律法といいます。ユダヤ教の数え方では、おきては613もあるそうです。
そしてイエス様は、この世界の終わりまで律法がなくなることはないとはっきり言いました。

じゃあぼくたちも律法を全部守らないといけないのかというと、実は聖書の中で、「ユダヤ人クリスチャンたち」から「異邦人クリスチャンたち」への愛の配慮として、偶像礼拝だけ気をつければ、ほかの律法は免除されると決めたのです。使徒言行録の15章から、長くなるので28-29節だけ引用します。

「聖霊とわたしたち(ユダヤ人の使徒や長老)は、次の必要な事柄以外、一切あなたがた(異邦人クリスチャン)に重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

使徒言行録15:6-7,10-11,22-23,28-29(新共同訳)

これはとてもラクになったと言えます。ペトロは仲間のユダヤ人使徒たちに「先祖も私たちも背負いきれなかったあの大変な律法を、異邦人の兄弟たちにも背負わせるなんて、神が喜ぶと思うのか?」と言ってるくらいだから(使徒15:10-11)。

ただこれは、「旧約律法の中では、偶像礼拝関連だけ気をつければよい」となっただけです。

旧約律法がすべてではない

旧約の律法は、主がモーセをとおしてイスラエルに与えたもの。
でも神と人との関係はモーセより前から続いていました。

神様が世界を創造し、アダムとエバをも創造。
アダムとエバの遠い子孫としてアブラハムが登場。
アブラハムの子孫がイスラエル民族に。
そしておよそ四百年後、イスラエルがエジプトから出てきたときにやっと律法授与され、イスラエルと神様が「律法を守る」でつながる時代が続きます。
やがてイエス様が現れ、新しい律法、イエス様のおきてが与えられました。

「わたしのおきてを受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

ヨハネ14:21(新共同訳)

ぼくたち異邦人は、旧約聖書の律法では偶像礼拝をしないということ、それと、イエス様が与えた新しいおきてを守って生きるんです。

おきてに従うとは

バプテスト初歩教理問答書という、ちょっと古い本がありあす。
教理問答書というのは、質問と答というかたちで、聖書の教えを説明するもの。その中にこういう問答があります。

第26問、神様のいましめ(律法)に従わず、それにそむくことをなんといいますか。
答 罪といいます。
第27問、いましめに従わないとは、どういうことですか。
答 神さまのお求めどおりにしないことです。

『バプテスト初歩教理問答書』

私たちをつくった神様には、私たちに求めていることがある。それをまもるのが、神様に創造された、神様のものである私たちにとって正しい事なんです。

それをわかりやすく示したのが律法でした。
「あなたたちがこういうことをするのは、神様があなたたちに求めていることではないから、やっちゃダメ」
「あなたたちがこういうことをするのを、神様はあなたたちに求めている」といったことです。

「悪いことをする」のが罪なだけではなく、神様が求めている「よいことをしない」のも罪なんです。
それでカトリック教会では、「回心の祈り」というお祈りのなかで、次のように告白します。

全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。
わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。

カトリック教会の「回心の祈り」

「神様が求めているとおりにしないのが罪」とはこういうことです。
神様が求めていないことを、思う、言う、行う。
神様が求めていることを怠る、サボる、やらない。
どちらも罪です。「律法に書いてあるかどうか」ではなく「神さまのお求めどおりにしない」が罪だからです。
旧約律法の時代も、それより前も、それより後つまりイエス様が来てからも、です。

偶像礼拝以外は旧約律法を守らなくてよくなった私たち異邦人も同様です。
というか、旧約律法を守らなくてよくなったというのに、難易度が爆上がりしてない?

 旧約律法を免除されてもラクになってなくない?

ぼくたちは、律法のルールなしで、「神様がぼくたちに何を求めているだろう」って考えて、そのとおりにしなきゃいけない。
それだったら律法に書いてある通りにする、律法が禁止していることはしない、というほうがラクかもしれない。

たとえば十戒の「殺してはならない」というおきては、守るのと違反するのとどっちが難しい?
「人を殺すな」を守るのってそんなに難しくないよね。心の中でどれほど憎んでいても、殺さなければ罪にはならないんだ。
ところがぼくたちは、十戒を守らなくていいかわりに、イエス様から「愛しなさい」っていう新しいおきてを与えられている。こんなの「殺してはならない」とは比べられないほど難しいだろ!
「どうやったら敵を愛してることになるんだろう」、なんて考えてる時点でまだ愛せてないよね。当然、愛してるフリもだめ。「愛しなさい」は「殺してはならない」よりはるかに難しい!

十戒では「安息日を聖なる日としなさい、神を礼拝すること以外はしてはならない」と決められている。イエス様とファリサイ派などが、意見が一番あわなかったことだ。
でもぼくたちは安息日を守らなくてよくなった。「日曜日は安息日だから、十戒のとおりに教会に行って礼拝しなければならない」なんてことは聖書には一言も書いてない。
ぼくたちの教会が日曜日に礼拝をささげているのも、日曜日が安息日だからじゃなくて、ぼくたちが日曜日を選んだからなんだよ(安息日の次の日の朝にイエス様が復活したことを記念するのが日曜日だから、日曜日は安息日じゃないし)。

私たちは、神の恵みと選びとにより召し集められたものであり、週の初めの日を主の日と定め、公(おおやけ)の礼拝を守り、バプテスマと主の晩餐との二つの礼典を行います。…

千葉バプテスト教会信仰告白(1982)より

「私たちは主を礼拝したい。だから私たちは、日曜日に教会に集まって一緒に主を礼拝することにしよう」ということをぼくたちが決めたから日曜日というだけなんだ。
「私が主を礼拝したいんだ。そのためにみんなと教会に集まりたいんだ。私たちはそのために日曜日を選んだんだ」という心が大事なんだ。「日曜日に教会に行って礼拝に出席だけしてればいい」というんじゃないんだ。

ファリサイ派のような安息日の考え方だったら、礼拝に出席するだけでよかったかもしれない。心が神さまをむいてなくて「今朝のプリキュアかっこよかった」とか思っててもいい。
ところがぼくたちは、十戒の安息日ルールを守らなくてよくなったかわりに、イエス様から「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」というおきてを与えられている。そうなると「礼拝に出席してるけど神様以外のことを考えてる」というのは、神を愛していることにならないよね。
やっぱり旧約律法のほうがラクで、新約の「イエス様のおきて」のほうが難易度がめちゃくちゃ高いと思う。

使徒パウロは、「私ほど旧約聖書の律法を守ってるイスラエル人はいない」と自分で言えるほどの人でした。そんなパウロでも「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」と書いてる。
律法だけ守ればいいっていうほうがラクなんだ。神様が求めておられる善を行うこと、神様が求めていない悪を行わないこと、これが難しいんだ。
それでパウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とまで書いてる。こんなわたしを誰が救ってくれるのか、救うことができるのか、と。

大丈夫!

でもパウロはこうも書いているんだ。

わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

ローマの信徒への手紙7:25(新共同訳)

私の心は神の律法に仕えているのに、私の体は罪に支配されてしまう。
それをひっくるめて、でも「キリストをとおして神に感謝」なんだと。

「私から、キリストを通して、神に」ということは、「私」と「神」の間に「キリスト」がいてくれるということ。
私は神に従いたいのに、罪から逃れられない私は神の裁きを受けるしかない。神は私を愛しているのに、私を裁かなければならない。でも私と神の間にキリストがいてくれる。
神が私に求めている「あるべき私」と「実際の私」はとてもかけはなれている。「実際の私」はとてもじゃないけど「あるべき私」に届いてない。でもキリストが私の罪を解決し、私をきよめてくれているので、私は神の前に立つことができる。だから次のように書かれています。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、けがれのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。

エフェソの信徒への手紙1:4-5,3:12(新共同訳)

私は、神様が私に求めておられるとおりにできないけれど、でもイエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされたから、神様と私の間に主イエス・キリストがいてくれる。

だから大丈夫なんだ。

私と神様の間に律法しかなかったなら、律法を守れない私は神様に裁かれるしかなかった。
でも私と神様の間にイエス・キリストがいるから、「神さまが求めている私」に届かない私でも神様の前に大胆に断つことができる。

ぼくたちを罪から救ってくれたイエス様は、望まない悪をおこなってしまうぼくたちのこともなんとかできるんです。
自分で「神さまが求めている私」になれないけれど、「イエス様を信じている私」でいればいいんだ。
パウロが「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝」と言ってるのはそういうことなんだと思う。イエス様がいるからぼくたちは「神を恐れる」を超えて「神に感謝する」になれるんです。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年5月21日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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