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受難節/生きている者の神【マルコによる福音書12章26-27】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は教会学校動画の原稿を再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところがあるかと思います。動画版は↓のリンクからどうぞ〕

受難節が始まりました

3月が始まったと思ったら、2月ほどは厚着しなくてもいい日が続いていて、春が近づいてるなという感じですね。
春といえば、教会ではイースターです。

イースターには「おめでとう」って挨拶します。
イエス様が死から復活したことは、めでたいことです。
でもその「おめでとう」の前には、イエス様が死んだというできごとがありました。

今日は受難節の最初の日曜日です。

受難節のことは、四旬節ともいいます。旬は「10日間」という意味で、四旬節は「40日間の祭り」という意味です。
聖書では40という数字は、何かの準備のための期間に関連して出てくることが多い数字です。

  • イエス様は、おおやけの活動を開始する前に40日のあいだ荒野で断食しました。

  • モーセはエジプトを出てから40年経ったあと、神様から「イスラエルを救出しろ」と命じられました。

  • モーセが神様から十戒を受け取るのにも、山の上で神様とともに40日をすごしました。

  • エジプトを脱出したイスラエルは「約束の地」に入るまでに、40年という年月が必要でした。

  • ノアの時代に神様が洪水で世界をやりなおすとき、40日40夜のあいだ雨が続きました。

こうしたことにちなんで、イースターの前の40日間はイエス様の受難のことを思いながらすごそう、というのが受難節=四旬節です。イースターを迎える準備として、イエス様の十字架の苦しみは私の罪がゆるされるためだったということを思い出す期間。
この時期を断食してすごすクリスチャンたちもいます。
余談ですがカーニバル(謝肉祭)は「受難節の断食(肉を謝絶する)期間に入る前に食べて飲んで騒ごう」という祭りなので、ブラジルなどでは「受難節はそういうものではない」ということで現在のようなカーニバルに反対する人たちも少なくないそうです。

イエス様の十字架を思うということは、自分の罪と向き合うということ。ただ、日曜日は主の復活を記念する喜びの日なので、四旬節に断食するとしても日曜日はそうしたすごしかたにふさわしくありません。
というわけで、「イースター前の40日間」というのは「ただし日曜日を除く」となります。つまり、正確に言うと「イースターの46日前の水曜日」から四旬節に入ります。

で、今日が受難節の最初の日曜日になるわけです。

受難節のキャンドル

 千葉バプテスト教会では毎年、受難節の6回の礼拝で紫のキャンドルをともします。
そして受難節第1日曜日には、礼拝の中で1本目のキャンドルを消す。
受難節第2日曜日には2本目を。
毎週少しずつ暗くなっていくキャンドルで、「まことの光」であるイエス様が十字架の苦しみに向かって進んでいったことを表わすものです。

受難節第1日曜日のキャンドル

そうして、イースターの前の週の日曜礼拝で、6本すべてのキャンドルが消えます。
その週の金曜日は、イエス様が十字架で死んで葬られた受難日になります。

この受難節で紫のキャンドルを使うのは、教会の伝統の中で紫の色は「悔い改め、慎み、待望」などのシンボルだからです。教会によっては受難節だけでなく、待降節(アドベント)にも紫のキャンドルを使います。キャンドルだけでなく、礼拝堂で使われる布の色を統一する教会もあります。

イースターの礼拝では、白のキャンドルを使います。教会の伝統の中で、白という色は「喜び、栄光、純潔」などのシンボルです。
光であるイエス様の復活を記念してふたたびすべてのキャンドルをともします。礼拝の途中でともすのではなく、すでに6本すべてが灯された状態で礼拝を始めることで、人が気付いたときにはもうイエス様は復活したあとだったことを思い出します。

イースター礼拝のキャンドル

お祭りであるということ

受難節は、四旬節とも呼ばれる40日間のお祭りだ、と言いました。

お祭りと言うと、神社のにぎやかで楽しげなお祭りを連想するかもしれませんが、「まつり」というのは「神様をまつる」こと。
「まつる」というのは「ととのえられた儀式で神様をもてなす」こと。
なのでキリスト教でいうと、礼拝式で神様に賛美をささげるのは「祭り」そのものなんですね。

神社のお祭りでは、祝詞(のりと)という祈り最初に、神様の名を呼んでその神徳をたたえる言葉をささげます。「〇〇という神様、あなたはこんなにもすばらしい」ということを申し上げるわけです。
じゃあ私たちが礼拝をささげる主は、どんな神様なのだろう。

主はどんな神なのか

旧約聖書の中で、主はいろいろなパターンで自己紹介したり名乗ったりしています。
その中でも主が特によく使う決め台詞が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」なのだけど、これはどういう意味なのか。

「アブラハムの神」と名乗る主は、世界中の人々の中から「メソポタミア人アブラハム」を選び、愛して、子孫を繁栄させることや、多くの恵みを約束した神です。

「イサクの神」と名乗る主は、アブラハムに約束したことを、アブラハムの子イサクに受け継がせました。「アブラハムとの約束は、アブラハムが死んだので終了」というのではなくて、主の約束はイサクへ、そしてその子孫たちへと相続されていったということです。

イサクの子のヤコブはいろいろ失敗もしたし、かなりやばいピンチになったこともあったけれど、それでも主はアブラハムとの最初の約束を守り続けました。
「ヤコブの神」と名乗る主は、ヤコブにイスラエルという名前を与えて、ヤコブ=イスラエルの12人の息子がイスラエル12部族となって、主との約束が受け継がれていきました。 

主は生きている者の神

ところでイエス様は、主が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だというのは、遠い昔の死んでしまったご先祖の神という意味ではないのだと教えています。アブラハムもイサクもヤコブも生きていて、主は生きている者の神だというのです。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。

マルコによる福音書12:26-27

聖書は、アブラハムが175歳で死んだこと、イサクが180歳で死んだこと、ヤコブが147歳で死んだことを記録しています。ぼくたちの感覚では考えられないような長生きですが、年齢はともかく彼らが死んだことは疑う余地は無いでしょう。

でもその一方で聖書は、「人間は死んだらおしまい」ではないことを何度も書いています。
人が死んだというのは、この世での人生が終わったというだけなんだ。アブラハムもイサクもヤコブも、死んでこの世を去ったけれど、この世を去っただけでまだ生きている。だから「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である主は、「生きている者の神」なんだ、とイエス様は言ってるわけです。

 イエス様は何人かの死んだ人を生き返らせたことがあります。
「いきかえる」「よみがえる」の「かへる」(帰る/返る/還る)は、「もとのところに戻る」ということ。死んでこの世から去った人たち、自分の肉体から離れてこの世を去った人たちが、神様であるイエス様の権威によって、この世に肉体をもって戻った、ということです。

もし「戻ってきた」のではなくただ体が動き出しただけなら、それはゾンビだよね。
でもそうじゃない。
肉体を離れ、この世を離れても、それでも人は生きている。だからイエス様が命じるなら、その力に従ってこの世に戻ってくることもあるんです。「死体」がイエス様の言葉に従って動き出したのではなく、「体を離れたけれど生きている人」がイエス様の言葉に従って戻ってきたんです。

(念のためだけど、死んだ人を生き返らせることができるのはイエス様だし、イエス様は神様で、神様には何でもできないことはない、というのが聖書が伝えていること。だから「死んだときの体をとっておかないと、復活できない」ということはないです。) 

クリスチャンでも復活を信じないという人もいます。そういう考え方だと、イエス様が復活したと伝えている聖書の言葉も「体をもって復活したのではない」とか「弟子たちの心の中に復活したんだ」という読み方をしようとします。
でも聖書は「そういう読み方をする人もたちもいると思ってました」という感じで、イエス様が肉体をもって復活したことを丁寧に証言しています。
そして、イエス様が文字通りに「復活」したからこそ、ぼくたちに希望があるんだ、ということも聖書は教えています。

イエス様の復活の意味

イエス様が十字架で死んだのは、ぼくたちが救われるためでした。
イエス様がぼくたちのかわりに、ぼくたちの罪のために十字架で死んで父から捨てられた。だからぼくたちは、イエス様の十字架を信じることで罪を赦されて、神の民イスラエルに入れてもらえたんです。

そしてイエス様が復活したことは、ぼくたちにとって希望です。
復活したイエス様が今もいつまでも生きているように、ぼくたちもイエス様とともにいつまでも生きるという希望が、イエス様の復活によってぼくたちに与えられています。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え

ペトロの手紙一1:3

ぼくたちを愛して、ぼくたちのためにクリスマスに世に来て、ぼくたちのために十字架で死んで、ぼくたちのために復活した主イエス様に、礼拝と賛美をささげよう。

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