頭をあげろ!【詩編24】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の原稿を再構成したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕

今週は詩編24編です。

先週は、有名な詩編23編でした。
その前の詩編22編も有名です。イエス様が十字架の上で叫んだ「エリ、エリ、レマ、ラバクタニ」「私の神、私の神、どうして私を見捨てたのですか」は、詩編22篇の言葉だから。
それに比べると、詩編24編、あまりイメージないです。22と23が有名すぎるからだと思うけど。

ちなみに、聖書のほかの巻では「1章、2章」と数えるけど、詩編は詩の数え方として「1編、2編」と数えます。

賛美

ダビデはまず、
「地とそこに生きているもの」
「この世界とそこに住むすべてのもの」
は主ヤハウェのものだと宣言します。同じことを、表現を少し変えて繰り返すことで強調するのは、ヘブライ文学の特徴のひとつですが、「住む」という言葉で人間を指すことによって「人間以外のすべての生き物も、そしてもちろんすべての人間も」と言っているようにも思えます。

聖所

次の段落では
「どのような人が、主(ヤハウェ)の山に上り、聖所に立つことができるのか」
と問いかけます。

聖所というのは神殿の奥の聖なる場所のこと。
といっても、ダビデの時代はまだエルサレムに神殿はなくて、幕屋という巨大テントが神殿の役割をもっていました。この幕屋も中心に聖所があり、そこで主がイスラエルと会うというので、会見の幕屋とも呼ばれます。

わたしはその場所(幕屋)であなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。
(出エジプト記29章42-43)

では、どのような人が聖所で主のまえに立つことができるでしょうか。

それは潔白な手の人(正しいことしかしない人)で、主を求める人だ、とダビデは歌います。そんな人を主は祝福して恵みを与えるのだと。

実はこれ、クイズだったら答えは「祭司」です。聖所に入れるのはイスラエル人の、12部族の中のレビ族の、アロン一族の男性である祭司だけだと定められていました。
さらに聖所の奥に至聖所があります。究極の聖なる所という意味で、ここにはアロンの一族でも大祭司ただ一人だけが、年に一回しか入ることができません。

でもダビデは「祭司や大祭司は潔白な手の人だから」と言っているのでしょうか?
それについて考える前に、この詩の全体を見てみましょう。
(上記リンクの動画では、神の名が出てくる箇所は「主」を「ヤハウェ」に直して朗読しています)

詩編24編

ダビデの詩。賛歌。

地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主(ヤハウェ)のもの。
 主(ヤハウェ)は、大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。

どのような人が、主(ヤハウェ)の山に上り
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく
あざむくものによって誓うことをしない人。
主(ヤハウェ)はそのような人を祝福し
救いの神は恵みをお与えになる
それは主を求める人
ヤコブの神よ、御顔をたずね求める人。

城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
強く雄々しい主(ヤハウェ)、雄々しく戦われる主(ヤハウェ)。
城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
万軍の主(ヤハウェ)、主こそ栄光に輝く王。

城門よ!

ダビデは城門に向かって、栄光に輝く王である主が来るから頭をあげろ、起き上がれ、と呼びかけています。
城門というのは城の門のこと。城とは王が住むところ。ここでは神殿の門、ということになりそうですが。

さっきも触れましたが、ダビデの時代にはエルサレムに神殿はまだありません。幕屋で礼拝がおこなわれていて、幕屋を囲む塀にも門はありますが、城門という感じではありません。

じゃあ、城門というのは何だろう。

ダビデは材料をそろえるなど神殿を建てる準備だけして、息子のソロモン王が主の神殿を建てることになります(歴代誌上22:5)。
そうするとダビデは、将来建てられる神殿の城門のことを言ってるのかもしれない。

あるいは、この詩はエルサレム神殿ができたあとの時代に、その城門を見た誰かがダビデの気持ちになってつくった詩なのかもしれない。
エゼキエルの時代に捕囚にされた人々は、新バビロニア帝国の圧倒的な建築の宮殿や城門を見たでしょう。それで「主ヤハウェがイスラエルの王であるというのは、こうした立派な城門に迎えられる王様なんだ」とイメージしてこの歌を作り、それが「ダビデっぽいよね」「ダビデの時代に神殿があったらきっとこんな歌を歌ったよね」という伝わり方をしたのかもしれない。

ただ、もう一つ考えられるかなと思います。実際のダビデの気持ちなんて誰にもわからないので正解はないから、これはわたしの想像です。

人は城、人は石垣、人は堀。そして人は城門。

戦国時代最強といわれる武田信玄は、戦争が続いたあの時代にお城を建てず、館(やかた)に住んでいました。そして
「人は城、人は石垣、人は堀」
と言ったそうです。「どんながんじょうな城を建てるよりも、信頼しあう味方という人間こそが、城であり石垣であり堀なんだ」という意味です。

ダビデも同じように考えたのかもしれないと思うんです。
ダビデも「イスラエルの人々こそが、王である主をむかえる城門だ」と。

ダビデが城門に向かって「頭をあげよ、身をおこせ、栄光に輝く王様ヤハウェが来るぞ」と言ったのは、主の民であるイスラエルの人々にむかって、「王様を迎える城門のように、王である主を迎えるんだ!今はまだ神殿がないけれど、あなたちこそ神殿の城門だ!さあ、頭をあげろ、身をおこせ!」と言ってるんじゃないだろうか。

聖所に入る人とは

先ほどの「聖所に入り主の前に建てる人は誰か」というクイズ、答えが「祭司(大祭司)」だというのは、ダビデの時代、旧約聖書の時代なら、という条件付きです。

イエス様が十字架で死んだとき、神殿で聖所と至聖所を仕切っていた垂れ幕が、上から下へ、天から地へ真っ二つに裂けました(マタイ27:50-51)。
至聖所は、大祭司だけが主と会う場所だったのに、十字架でイエス様が死んだまさにその瞬間に、至聖所とそれ以外の場所とを区別していた垂れ幕が取りのぞかれたのです。

イエス様は、エルサレム神殿ではないところで父を礼拝するときが来るとも言っていました(ヨハネ4:21)

そしてさらに、『わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができ』るのです(エフェソ3:12)

ダビデは「こういう清い人間なら聖所で主に会える」と歌ったけれど、自分をそこまで清くできる人間は一人もいません。
でもイエス様の十字架によって私たちは清くされました。イエス様を信じた私たちは、大胆に神に近づくことができてしまうのです。

そして聖書は、わたしたちが主の神殿だとも言っている(コリント一3:17)
あなたが神殿なんです。
栄光に輝く王様である主は、あなたという城門に来て、あなたという神殿に入り、あなたに住むんです。イエス様を信じたときから、もうそうなってるんです。

だから、もしどんなことがあっても「どうせ私なんか」と思わないで。
もしそう思ってしまうことがあったら、思い出してください。「栄光に輝く王である主が、わたしという神殿の中にいるんだ」ということを。

自分で何かをがんばって自分を清くして主の神殿になったのではありません。がんばったのはイエス様です。イエス様があなたをきよくして、聖霊様があなたを主の神殿にしてくれたから、顔をあげ、身を起して、栄光に輝く王様である主を迎えましょう。

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