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天地創造と科学と聖書 | 創世記1章 | やさしい聖書の話

2023年7月2日(日)の教会学校でのお話をもとに。

7月から9月は創世記の、アブラハムが登場する前くらいまで読みます。
聖書の神様を信じない人や、クリスチャンでも奇跡は信じない人たちが、神話だと思っているところです。
神が世界をつくったとか、ノアの洪水とか、バベルの塔の話を、詳しく読んでいく感じです。


天地創造(1章の場合)

1章には、神様が世界を作った天地創造のできごとが書いてあります。ざっくりいうと、
1日目、神は光をつくった。
2日目、神は世界を「空」と「水」に分けた。
3日目、神は水を、海と陸にわけて、陸に植物を作った。
4日目、神は太陽と月と星をつくり、昼と夜をわけた。
5日目、神は海の生き物と空の生き物をつくった。
6日目、神は陸の生き物をつくり、最後に人間をつくった。
7日目、神は天地創造の仕事を離れて休んだ。

でも、教会学校や教会幼稚園で「神さまが世界をつくった」「人間などの生き物も神様が種類ごとに造った」と教わったのに、学校では「生き物は進化してきた」と教わるよね。

聖書と科学は、どちらが正しいのだろう?

ぼく(のぶおリーダー)は、神様が世界を作ったと信じています。
なぜかというと、聖書が「世界は神がつくった」と言っていて、そして科学は「神が世界をつくったのではない」ということを証明できていないからです。
科学は「神が世界をつくったのではなかったとしても、世界について説明できる」「世界はこのようにしてできたと考えれば、神の存在を必要としない」ということでしかないんだ。しかも、今のところそう考える学者が多いというだけで、どの説も「実際に間違いなくこのとおりだった」と確認されたわけではない。

などというと、聖書を信じないで科学を信じる人からはこう言われると思います。「神が世界をつくったことも証明できないではないか」
そのとおり。
「神が世界をつくった」も「神が世界をつくたのではない」も、どちらも証明はできていません。キリスト教の信者も科学の信者も「世界はこうしてできた」と信じているだけなのです。

ただ不思議なことに、科学が発展することで、聖書に書いてあることを科学的に説明できるようにもなってきてるように思える所もあるんですね。

科学の説明が聖書に近づいている

たとえば、「創世記は、太陽が4日目にできたのに、光が1日目にできたなんて言ってる。おかしいだろ」と言われていた。
でも今では、太陽系は「光」ができてから「太陽」ができたことがわかっているんだ。

宇宙空間というのはまったくの無ではなくて、チリやガスなどの物質がある。それらは、広すぎる宇宙では無視したくなるほどわずかだけど、集まると例えば星雲をつくったりする。

ハッブル宇宙望遠鏡による、大マゼラン銀河のN11星雲(LMC-N11)
星雲は、宇宙空間のチリやガスの集まり
(ウィキペディア「暗黒星雲」より)

太陽系もこうした星間ガスやチリが、長い時間をかけて互いの重力で引き合って、ゆっくりと集まっていった。
集まってくると、光や熱を発するようになる。さらに集まると中心に星ができて、チリやガスはこの星に引き寄せられていく。これを原始惑星系円盤という。

アルマ望遠鏡による、おうし座HL星の原始惑星系円盤。やがて惑星が生まれ太陽系になるだろう。
(ウィキペディア「原始惑星系円盤」より)

地球がある太陽系も同じようにできてきた。チリや星間ガスが集まって、現在の地球の軌道あたりまでが光るようになり、やがて中心に星が誕生し、それが核融合反応をはじめて恒星となり、そしてほかの惑星などができていった。
つまり、「太陽ができるよりずっと先に光ができた」というのが科学的で、「太陽より先に光ができるのはおかしい」というほうが実は非科学的だったんだ。

創造論というのがあって

聖書の天地創造を、科学で説明できると考える人たちがいる。
たとえば聖書は二日目に、水が「上の水」と「下の水」にわけられてその間に「空」ができた、と伝えている。創造論ではこれを次のように説明する。

  • 「下の水」というのは、地球に今も存在する海などの水。

  • 「上の水」というのは、かつて空(大気圏)の上に分厚い水蒸気の層があって地球を覆っていた。

  • この「上の水」は、ノアの洪水のときに地球に降り注いでしまったので、現在は存在しない。

  • 創世記でノア以前の人間は900歳以上など驚異的に寿命が長いのは、創造されて間もないので遺伝子にエラー情報がなく病気になりにくかったことと、上の水(水蒸気層)が紫外線などの有害な宇宙線から地球を守っていたことによる(今でもオゾン層が薄くなるオゾンホールという現象が拡大すると、地表に届く紫外線が増えて健康被害が出ることが知られている)

なんか、納得できそうな気もする。

でも創造論も証明はできていないということではほかの説と同じだし、天地創造の光と太陽の順番についても、さっきのような説明もできるということでしかない。でもこれだと、天地創造は太陽系のことだってなってしまって、「太陽系以外の銀河系や他の銀河は、神がつくったのではない」ということになってしまう。
「1日目に光が造られたというのは宇宙の始まりの大爆発ビッグバンのことだ、そのずっとあとに太陽系ができたことを、4日目に太陽が造られたと言ってるんだ」という説明を試みる人もいるけど、でも3日目に陸と植物がつくられたというのがわからなくなるよね。

聖書も科学も証明はできないんだ

進化論もビッグバンも仮説

日本の学校では進化論が事実であるかのように教えられるけれど、実は進化論というのはものすごい勢いで進化し続けています。進化論では説明できないことを説明できるようにするために、進化論は進化し続けないといけないんだと思う。
日本の義務教育ではたぶん教わらないけど、進化論への「科学的な反対意見」も多いんだ。そうした欠点を説明できるようにするために、進化論を直し続けなきゃいけない。

だからね。ぼくみたいな素人が「進化論て、こうなんでしょ?」と聞くと、こう言われることが多いんだよ。「昔の進化論ではそう説明していたけど、最近の進化論ではこういうふうに変わって来てて」

そうすると現在の最新の進化論も、未来の進化論者からは「それは古い進化論で、」と言われるんじゃないかな。

あと、宇宙がビッグバンでできたという説にも、科学的な反対意見もある。ビッグバン理論が今のところもっとも賛成されてるけど、これも「こう考えることができる」という理論でしかない。

聖書の神でなくても成立する

ところで、「進化論は欠陥が多い」と言うと「じゃあ聖書みたいな非科学的な話が本当だとでもいうのか?」という人たちがいる。
「聖書は、実際に観察される世界の様子とあわないところがあるよね」と言うと「じゃあ聖書よりも進化論を信じるのか」というクリスチャンもいる。
でもさ、「進化論か聖書か、どちらかが正しい」なんてルールはないんだよね。

それで、「科学でも聖書でも説明しきれないが、誰かが知性をもって世界を作ったことは否定できない」と考える人たちもいる。インテリジェント・デザイン論というものだ。
すると「じゃあこんなのはどうだ?」といって、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」と言うのを提案する人たちもいる。もちろんこれはパロディで、本当にこういう宗教を信じてる人がいるのではないのだけど。

ウィキペディア「空飛ぶスパゲッティーモンスター教」より。
「知性のある何者かによって世界がつくられた」というなら、聖書の神でなくてもこういうのでもいいことになるぞ、という科学的パロディ。

「聖書は正しい」はクリスチャンによって違う

聖書が正しいかということで言うと、実は聖書の読み方もクリスチャンによって違うからややこしい。たとえば。

  • 創世記に書いてあるとおり、神は6日間で世界を創造したと信じる人。

  • 神が世界を創造したと信じるけれど、6日間でとか、創造の順番については、当時の人にわかるように演出が入ってると考える人。

  • 聖書の神を信じるが、神が世界を創造したのではないという人。

  • 聖書で大事なのは「イエスが救い主」ということだけで、ほかはあまり気にしないという人。

ぼくのお父さんもクリスチャンだけど、天地創造で「1日」というのは24時間のことではなく「一区切り」という意味だろうっていう考えだった。そしてこの一区切りというのは、数万年とか数億年ということもあるだろうと。
それで、小学生だったぼくはお父さんに質問したんだ。「3日目に植物ができて、数万年とか数億年のあと5日目に空の生き物ができたとすると、虫媒花はどうなるの?」
植物が実をつけるには受粉(オシベにできた花粉がメシベに届けられること)が必要。たとえば杉は風媒花といって、風邪で花粉を運ぶのだけど、これが大量になると花粉症をおこしてしまう。
で、虫媒花というのは、ハチなどの虫がミツを食べにきたときに、オシベの花粉が虫につき、それがメシベにつくことで受粉する仕組みになってる。鳥媒花という、鳥に花粉が運ばれる種類もある。そうした植物は、3日目に植物ができてから数万年後に鳥や陸の生き物ができたのならその前に受粉できなくて(実をつくれずタネをつくれないので)絶滅してることになる。
それでぼくが「虫媒花はどうなるの?」ときいたら、ぼくのお父さんは「あれ?」てなってたw

のぶおリーダーは創世記をどう読んでるか?

じゃあぼくは、天地創造をどのように読んでいるタイプのクリスチャンかというと。
創世記に「書いてあること」というより、創世記が「伝えていること」を信じています。

ぼくが信じる神様はなんでもできないことはないので、世界を創造するくらいのことはできるだろということはまったく疑っていません。
神様がどうやって、どういう順番で、どれくらい時間をかけて世界をつくったかは分からないし、もしかしたら創世記1章に書いてある通りでではないかもしれないけれど、創世記1章が伝えているとおり神様がこの世界をつくったからこの世界は存在するんだということを信じています。

学校でならったり本や図鑑で知ったことは、大事な知識です。それは「この世界が今どうなってるか」ということと、「どのようにしてこうなったかについて、今のところ一番確からしいと考えられている説明」です。
ただ科学は、「どのように」の説明はできたとしても、「なんのために」の説明はできないんだ。
だから科学は「なぜ人を殺してはいけないのか」を答えることができない。地球に現生人類が登場したのも、その中でぼくという個体が生まれて生きているのも、科学的には「たまたまそうなっている」でしかない。だから科学的には、誰かがぼくを殺してもなんの問題も無いんだ。人間という種を絶滅させたならそれは生物多様性の科学的意義にとって問題になるかもしれないけど、人間のなかのいち個体が寿命まで生きるか途中で死ぬかはまっっったく何の問題もない。「なぜ人を殺してはいけないか」は科学以外、たとえば道徳などで説明しなきゃいけない。

でも神が(聖書の神でなくても、なんらかの意志のある存在が)この世界をつくったなら、そこには世界をつくる理由や目的があったはずだ。
この世界のすべての命も創造者によって存在していて、つくられたすべてのものはつくった創造者のものだから、人間が勝手に殺してはいけない。神が天地を創造したというなら「どうやって」と「なんのために」の両方が説明できるけれど、科学の説明は「なんのために」を放棄する。聖書は一人一人の人間が価値あるものとするけれど、科学は一人一人の人間に価値を認めることができない。
(ぼくの科学についての理解によればなので、科学の側からは反論があるかもしれない。あくまで個人の意見です)

聖書と科学の未来

科学についてもうひとつ言っておかなきゃいけないのは、科学は不完全だということ。未完成と言ってもいい。
学校で習う科学も、本当だとは限らないよ。というか、学校でならったことを「それって本当かな」と思った人たち、「自分で確かめてみよう、考えてみよう」とした人たちが、科学を発展させてきたんだ。
もし全員が「授業で教わったことはすべて事実であり正しい」と考えたなら、科学は発展しなかったんだ。

そして、科学の発展にはクリスチャンたちがとても活躍してきた。
万有引力を発見したニュートンも、神がこの宇宙を創造したことを信じていた。
コペルニクスは、「地球が中心でその周りを太陽や星々がまわっている」という理論があまりにポンコツだったので、「神が造った宇宙はもっと美しい理論で動いているはずだ」と考え続けて「太陽が中心で、その周りを地球や他の星々がまわっているに違いない」ということにたどりついたんだ。

科学と聖書が対立するだなんて、誰が決めたのだろう。
これからも、聖書を信じる人たちも科学の発展に貢献していくのだろう。そして科学が発展すると「神がつくったこの世界」を説明できるようになっていくのだろう。ぼくはそう思っています。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年7月2日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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