「自分の聖書」を持てる幸せ【ローマ10:6-8】【やさしい聖書のお話】
2023年6月4日(日)の教会学校でのお話をもとに。
聖書を持つことのハードル
今の時代、日本では「自分の聖書」を持つことができます。
私が初めて「自分の聖書」を持ったのは、教会幼稚園の卒園式でもらったものでした。
でも「自分の聖書」を持てるって、実はすごいことなんです。
聖書を持つことは危険
北朝鮮では、聖書を持っているというだけで、つかまって死刑にされます。残念ながら今の時代でもこういう国は少なくはありません。
本が超高級品だった時代も
聖書以外の本でも、普通の人が自由に本を買えるようになったのって、わりと最近です。
私のおばあちゃんの職業は「貸本屋」でした。貸本屋さんは、お金を払って本を借りて、読んだら返すお店です。
当時は本が高価でした。なので、販売するための高い本とは別に、貸本屋で貸す用に出版される本があったんです。昔の子供は、手塚治虫のマンガとか、少年探偵団などの小説は、貸本で読んでたんです。
もっと昔、印刷技術が一般的になる前の時代は、本というものは手で書き写すものでした。一冊の本を手に入れるためには、一冊の本を書き写さなければいけないわけです。
そうすると、たとえば書き写すのに1か月かかるボリュームの本を買うということは、本を書き写すプロを1か月やとうくらいお金がかかることになります。
そんな時代の一冊の本は、すごく高価でした。下の画像のように、印刷技術ができる前のヨーロッパでは盗難防止のため、本とテーブルを鎖でつなげるようになっていました。
聖書は読むものではなかった
そういう時代にはもちろん、自分の聖書を持つなんて超お金持ちじゃないと無理。卒園式でタダでもらうなんてありえない。
じゃあどうしてたかというと、聖書が読まれるところに行って、聖書の朗読を聞いたんです。ふつうの人にとって聖書は「読むもの」じゃなくて「聞くもの」だったんです。
イエス様の時代もそうでした。聖書には、イエス様が会堂にはいって聖書を朗読し、人々がそれを聞いた場面があります(ルカ4:16-20)。
パウロはローマの人たちに、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書をもとにしてイエス様のことを伝えたけど、ローマ帝国でもギリシャ語訳聖書を持ってる人というのは超お金持ちの貴族だけだったでしょう。
イエス様より前、旧約聖書の時代はというと、巻き物などに書かれた聖書の朗読を聞くこともあったけれど、神様がモーセや預言者たちに告げたことを、人々はモーセや預言者たちから聞いたんだ。
聖書は神様の言葉で、神様の言葉が告げられたり読まれたりするところに行って、聞くものだったんだ。
聖書を持つことができるのは幸せだけど
今ぼくたちは、家でベッドにねっころがって、聖書の中のイエス様の教えを読むことだってできます。
でもイエス様の時代、ある少年は五つのパンと2匹の魚のお弁当を持って、イエス様の教えを聞くために遠くまで自分で歩いてでかけていきました(ヨハネ福音書6:2)
今、自分がいるところに聖書を持ってきて安全に読めるというのは、とても幸せなことだけど、
ただ、神様の言葉が告げられるところに自分から行ってそこで聞いてた時代に比べると、自分がいるところに聖書を持ってくるのって、もしかしたらお手軽に扱いすぎてるかもしれない。
聖書に、天に昇られたキリストを引き下ろすようなことをしてはならないって書いてある(ローマ書10:6)。もしぼくが、家でベッドに寝っ転がってお菓子でもつまみながら聖書のイエス様の教えをよんだとしたら、それってキリストを自分のところに引き下ろすようなことをしてるのかも。
聖書を読めなかった時代は
今は、いつでも聖書を開いて読むことができる。
スマホアプリで検索することだってできる。
じゃあ、そういうことができなかった時代はというと、聖書は会堂意などで聞いたものをその場でおぼえるしかありませんでした。
高学歴だったパウロだけじゃなくて、漁師だったペトロたちなどユダヤ人はみんな、子供の頃から会堂にいって熱心に聖書を聞いて、おぼえたのだそうです。
それで聖書にも、あなたたちは聖書の言葉を覚えてるよねということが前提の記述がある。
これは新約聖書にも引用されている言葉です(ローマ10:8)。
神の言葉はどこか遠くにあるのではなく、あなたの口と心にあるのだと。
聖書の暗唱のススメ
私も少しは、おぼえている聖書の言葉があります。
最初におぼえたのは、教会幼稚園でみんなでおぼえた詩編23でした。
大人になってからも、「聖書のこの言葉は、心の引出しに入れておいて、いつでも思い出せるようにしたいな」と思った言葉は、がんばって覚えるようにしています。
でもね、子供の時はもっと簡単におぼえられたはずなのに、大人になるとおぼえるのが苦手になるんだ。
御言葉があなたの近くに、あなたの口、あなたの心にあるように、聖書をおぼえることに挑戦してみてください。
「イエス様のこの言葉、好きだな」と思ったら、がんばっておぼえてみて。それがいつか役に立ちます。
ぼくはお祈りする時に、おぼえていた聖書の言葉に応援されることがあります。たとえばパウロが「わたしのために祈ってください」と書いてたのを思い出して、「牧師のために祈らなきゃ」とうながさることがあります(エフェソ書6:9。エフェソ書は、祈りをうながす言葉がたくさんあると感じます)。
第二次世界大戦中、ドイツでは、政府の命令に従わない牧師たちが牢屋にいられられました。聖書もない牢屋で日曜日に牧師たちは、おぼえていた聖書の言葉で宣教メッセージをしたそうです。
君が持っている君の聖書は、無くすこともあるかもしれない。時代がかわれば、日本でも誰かに聖書を奪われることもあるかもしれない(そういう時代が来ることが聖書に予告されています)。
でも脳みそにおぼえた聖書、心にきざんだ聖書は、無くすことも、誰かに奪われることもない宝物になります。
聖書から、好きだなと思う言葉を探して、ぜひおぼえてみて「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」ようにしてみてください。
それは誰にも奪われない、あなたの財産、あなたの宝物になります。
動画版のご案内
このnoteの内容は、2023年6月4日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。
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