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主は守ってくれるし、たとえそうでなくても【ダニエル書3章】【やさしい聖書のお話】

黄金の神像


バビロンの王様が金の像を造りました。高さは60アンマというから、約27メートルくらい。ガンダムが18メートルくらいだから、その1.5倍の高さ。

ガンダムRX-78-2は高さ18メートル。ネブカドネツァルが建立した神像の高さはこれの5割増し。
(c)創通・サンライズ Photo by Vantey

ビルとかない時代の平野に、こんな巨大な金の神像を建立したのだから、遠くからでもよく見えただろうね。特に朝日や夕日ですごく光ったと思う。

王は、合図の音楽がなったら国中の者は全員、ひれふしてこの像をおがめ、という命令を出した。
バビロンは世界史では新バビロニア帝国とも呼ばれるけど、帝国というのはいくつもの国を治める国のこと。バビロンにもいくつもの国、民族、宗教、言語があったけど、みんなこの像を礼拝しろという命令なんだ。

もしこの命令に従わない場合は、燃え盛る炉に投げ込まれる。
 炉というのは、武器などを作るためにものすごい高温で鉄を溶かすもの。投げ込まれたら焼け死んでしまう。

JFEスチール㈱の製鉄所で、高炉からとけた鉄を取り出すところ。
(c)写真家西澤丞のウェブサイト

でもバビロンの人たちにとっては、自分たちが礼拝する神々にもう一柱の神がふえるだけだから、何の問題もない。
もしかしたら王は、バビロンが治めるさまざまな国のさまざまな宗教の人たちが仲良く平和に暮らせるために、「それぞれが信じる神様」と一緒に「みんなで礼拝する神様」も礼拝するようにしようと考えたのかもしれない。

でも、この命令に従えない人たちもいた。
「神は唯一」と信じるユダヤ人は、主しか礼拝しない。特に、主に背を向けたために主の加護を失って国が滅びたばかりだからね。ほかの神や、人が作った像を礼拝する気にはなれなかっただろうね。
ちなみにここで初めて、「もとユダ王国の人々」が「ユダヤ人」と呼ばれるようになったんだよ。(新共同訳では、ダニエル書より前のエレミヤ書とエステル記にも「ユダヤ人」という言葉が出てくるけど、エレミヤ書はだいたいダニエル書と同じ時代、エステル記はもう少しあとの時代のことが書かれている)

ご注進

ユダヤ人たちが王の命令に従わないのを見たカルデア人(バビロンの中心的な民族)は、ユダヤ人の中でも目立っていた三人を王に訴えた。

何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。…バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

ダニエル書3:8-12(新共同訳)

シャドラく、メシャク、アベド・ネゴというのは、ダニエルの仲間の3人のバビロンでの名前ね。ユダからバビロンに連れてこられたときに、
ダニエル→ベルテシャツァル
ハナンヤ→シャドラク
ミシャエル→メシャク
アザルヤ→アベド・ネゴ
とバビロンふうの名前が付けられたんだ。

ところで聖書は、カルデア人(バビロン人)がユダヤ人を訴えたのは「中傷しようと」したのだと記録している。彼らは「王様の定めた法律に違反しているのが悪いのだから、これを知らせることが正しい」と考えたわけじゃないんだね。

たとえば君の友達が、君がいないところで、君の悪口を言っていたとする。誰かがそれを君に知らせたらどうだろう。「君のあの友達が、君のことこんなに悪く言ってたぜ」って。
君が傷つくのは、君に聞こえないところで友達が悪口を言った時か?それともそれが君に知らされた時か?
友達だから冗談やノリで軽口を叩くこともあるだろう。悪意があったのか無かったのかは本人に確かめるまでわからない。でも告げ口したやつに悪意があるのは確かだ。
告げ口したやつは「あいつが君の悪口を言っていたのは事実だ。知らないふりをするのは正しくないと思ったから伝えた」と言うかもしれない。でも君を傷つけようという悪意がなかったら、わざわざ伝えたりしない。本当に君のためというなら、君に伝えるのではなく、その友達に「そんなことを言うな」と注意するだろう。
有名人や政治家が仲間内で言った冗談が、「こう発言したのは事実だ」と拡散される。それが冗談でも言うべきでないことなら、言った人が炎上するのは自業自得だ。でも「悪意」があるのは「言った人」なのか「拡散した人」なのか。

カルデア人たちは「ユダヤ人たちが神像を礼拝しなかったのは事実。事実を伝えて何が悪い」と考えたんだろうな。ユダヤ人に悪意を向けた彼らがどうにかなったという記録はないけど、でも聖書は彼らの動機が「中傷」だったと記録しているということは、神は彼らが悪意によって行動したと知っているということだ。
イエス様も「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と忠告している(マタイ5:22)。何もしなくても腹を立てただけで、それは裁かれるべき悪なんだぞと。前にも紹介したカトリック教会の「回心の祈り」でも、「思いによる罪」を告白している。

全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。
わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。

カトリック教会の「回心の祈り」

ぼくたちの内側からくる悪い思いに気を付けよう。ぼくたちの心から出てくるものが、ぼくたちをけがしてしまうのだから(マタイ15:18)

迫害とは戦わない

密告を受けた王は「怒りに燃え」シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人を連行するように命令。
すると裁判で三人は王様にこう言った。

このことについて、私たちがあなたに言葉を返す必要はありません。
もしそうなれば、私たちが仕える神は、私たちを救い出すことができます。火の燃える炉の中から、また、王様、あなたの手から、救い出してくださいます。
たとえそうでなくとも、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。

ダニエル書3:16-18(聖書協会共同訳)

シャドラクたちの神は、彼らを炉からも王からも救うことができる。
救うことができるだけでなく、実際に救ってくれる。
でもたとえ神が私たちを救わなくても、私たちは他の神や偶像を拝まない。

注目したいのは「たとえそうでなくても」のところだ。主がシャドラクたちを救うかどうかを決めるのは、シャドラクたちではなく主だ、ということなんだ。「救ってくれる神だから主を礼拝する」というんじゃないんだね。

「信教の自由がー」「内心の自由がー」と叫ぶクリスチャンにとっては驚くべきことに、彼らは「なぜ宗教が違うからと言って殺されなければならないのか」なんてことは言わなかった。信教の自由を求めたり、信教の自由のために戦ったり抵抗したりしなかった。

聖書は、信教の自由を守れとか、迫害と戦えなんてことは、まっっったく言ってない。ていうか逆!
イエス様もこう言っている。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。

マタイによる福音書5:11-12(新共同訳)

わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい

マタイによる福音書5:44(新共同訳)

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。

マタイによる福音書10:28(新共同訳)

迫害もされてないうちから戦えなんてことも書いてない。
迫害されたら逃げろとは書いてあるけどね(マタイ10:23)

「信教の自由がなくなったら礼拝できなくなる」という人もいるけど、礼拝は「できるかできないか」じゃなくて「するかしないか」なんだ。

(c)さいとうたかを

パウロとシラスは牢屋にぶち込まれてもそこで主を礼拝した(使徒言行録16:25)。つかまっても殺されても主だけを礼拝することをやめなかった先輩たちが、日本にもたくさんいる。

長崎で殉教した26人を記念する「日本二十六聖人記念碑」

交渉の余地なし!

シャドラクたちが王に「この法律のことについて、私たちがあなたに言葉を返す必要はありません」と言ったのは、ケンカを売ったり挑発したりするためじゃないんだ。
もし王様に「主だけを礼拝することを許可してほしい」と願ったり交渉したりするつもりなら、こんな言い方はしていない。「王様が許可してくれたら、主だけを礼拝します。王様が許可してくれなかったら、主のほかの神や偶像を礼拝します」なんて考えてないんだ。

ぼくらと主とのきずなは愛

主はぼくたちをどんなピンチからも救うことができる。
けど、実際に主がぼくたちを救うかどうかを決めるのは、ぼくたちじゃなくて主だ。ぼくたちが主に「守れ」というと主はさからわずにぼくたちを守る、という関係じゃないんだ。主は、ぼくたちの命令に従うロボット、家来、パシリ、従魔、式神とかじゃないんだ。

昭和天皇は、ご自身と国民の絆(きずな)は「神話や伝説」ではなく「お互いの信頼と敬愛」だと宣言した。いわゆる「天皇の人間宣言」だ。
ぼくたちと主をつなぐ絆は「愛」だ。

© Kizuna AI, SCP Foundation.

神である主が愛そのものなのだから、主とぼくたちをつなぐ絆も愛。
でもって、愛っていうのは「これをしてくれるなら愛します」ていうものじゃないよね。
だからシャドラクたちは「たとえ神が私たちを救い出さないとしても」と言えたんだ。
「主が私を助けてくれるから、主を愛します」じゃないんだ。
「信教の自由がある場合、主を愛します」でもない。

今やるべきことは?

ぼくたちがシャドラクと同じような状況になったらどうだろう。
それについて次のように教えるクリスチャンたちもいます。

何より大切なことは「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴのようになれるだろうか」ということを思うよりも、彼らが置かれたような世界を作り出さないことだと思います。

日本バプテスト連盟『聖書教育』2022年7,8,9月号p69

でもね、イエス様はめちゃハッキリと、迫害の時代が来ると言ってるんだ。イエス様を信じているというだけでひどい目にあわされたり、信仰に命の危険がともなう時が来るって。
ということは、「シャドラクたちが置かれたような世界を作り出さないこと」というのは、「イエス様が予告したようなことが起きない世界を作り出すこと」だよね。
そんなことを教える教会なんて、もう教会じゃないよね。

イエス様がウソをついたのでない限り、迫害の時代はいつか必ず来る。
だったら、今のうちにぼくたちがしなきゃいけないことって、「信教の自由を守るために戦う」じゃなくて「信教の自由がなくなったときのための準備」だよね。
「シャドラクたちが置かれたような世界」になったときに、シャドラクたちのようにできる自分になること、だよね。

正直に言います。ぼく、今は全然ムリです。でもそうなりたい。シャドラクたちのように主に仕えたい。
「主を礼拝することが禁止されたら、礼拝やめます」「主以外を礼拝しろと言われたら、そちらを礼拝します」なんてクリスチャンにはなりたくないです。

炉に投げ込まれて

今回の結論がもう出てしまったけれど、物語の続きを見ておこう。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は、王の命令で炉に投げ込まれた。3人を炉まで連れて行った者が、吹き出す熱で焼け死んでしまうほどの高温だ。
でもシャドラクたちは死ななかった。ネブカドネツァル王が見たのは、炎の中で3人が、いや、4人が自由に歩き回る姿だった。不思議な誰かが3人と一緒にいた。

Shadrach, Meshach & Abednego より

驚いた王は「いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」と呼んだ。彼らが炎から出てくると、服も燃えていなかった。いつの間にか4人目はいなくなっていた。

ただ、三人を縛っていた縄は燃え堕ちていた。炎は、彼らが来ていた服にはまったく被害をあたえず、縄だけを狙って焼いてしまったんだ。
出エジプト記の「十の災厄」がエジプト人を襲ったとき、エジプトに住むイスラエル人のことは災厄が過ぎ越したのと同じだ。神である主の力は、主の意志によってピンポイントで働く。縛っていた縄が燃え堕ちても、彼らの服に火のにおいさえ残らなかったほどに!

三人の無事を確認した王は、彼らの神をたたえた。

王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、このしもべたちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」

ダニエル書3:28-29(新共同訳)

王の命令にそむいても、命の危険があっても、自分たちの神である主にだけ使えることを妥協なく押しとおした。それが王に通じた。
そうして3人だけでなく、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神」を信じる者たち、つまりユダヤ人全体に信教の自由が与えられる結果になったんだ。

この前、神のエビデンス(証拠)はぼくたち自身だという話をしたけど、ぼくたちは、ぼくたちがどう生きるかで、そしてどう死ぬかで、ぼくたちの神である主を示すことになる。イエス様が十字架で死んだときに「この人は神の子だった」と信じた隊長のことを思い出そう。

今すぐ「死ぬか、それとも主ではない神を礼拝するか」と言われることはないかもしれない。でもその時は必ず来ると聖書に書いてある。
その時になってからあわてないように、今から「その時わたしはそれでも主に従うことができるか」って考えてほしい。
もしぼくみたいに「今はムリ」という人は、ぼくといっしょに祈ろう。その時が来ても主にだけ仕えることができるように、強い私にしてくださいって。

動画版はこちら

この内容は、2022年9月4日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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