神に背いたら地獄行き、かというと【エゼキエル書33章】【やさしい聖書のお話】
〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の内容を再編集したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕
救われるのは誰?
神様は、すべての人がイエス様を信じて救われて、天国、つまり神様の世界に来ることを望んでいる、と聖書は教えています。
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙一2章4節)
けれど聖書は、すべての人が救われるのではないということも教えています。
じゃあ、『イエス様を信じることを選んで救われる人』と、『イエス様を信じないことを選んで救われない人』とは、何が違うんだろう。
なぜイエス様を信じないで、地獄と呼ばれる永遠の炎に行くことを選ぶ人がいるのだろう。
これは、キリスト教の歴史のわりと最初のほうから今までずっと、たくさんの牧師や学者が考えてきたことです。祈りながら聖書を研究してきたけれど、それでも、クリスチャンのみんなが「きっとそうだ!」って賛成できるような意見はまだありません。
誰かが
「こういうことなんじゃないか?聖書のここにこう書いてあるし」
といっても、他の誰かが
「いやでも、聖書のこっちにはこう書いてあるから、それは違うんじゃないか?」
という感じ。
「救われる人」は、あらかじめ決まってる?
たとえば、「神様は、誰が救われるのかをあらかじめ決めている。聖書にそう書いてある」という意見があります。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
(ローマの信徒への手紙8章29-30節)
救われる人は神があらかじめ定めているという、予定論という考え方です。
今日の聖書のお話のために、予定論のことを勉強しようと思ったのだけど、難しくて「ちょっと調べてみよう」くらいじゃ全然わかりませんでした。
とにかく、「救われる人、天国に入る人は、あらかじめ定められている」と聖書に書いてある。だから神様が救う予定じゃない人たちは、救われることはない、という考え方らしいです。
でも最初に紹介したように[神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。]とも書いてある。
ということは、「神様があらかじめ定めている人」は救われるとして、それ以外の人は救われないということじゃないんだろうと思う。
「救われない人」は、決まってない!
「救われない人も、あらかじめ定められている」とは聖書にも書いてない。それどころか、だから主は、主にそむき続けたイスラエルのことで、エゼキエルにこう言うんです。
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
(エゼキエル書33章11節)
この言葉は、イスラエルの人たちが主にそむいたことを反省したときに、主がエゼキエルを通して言った言葉です。
お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。(同10節)
私たちが主にそむいて、あやまちを犯したから、その結果が今、私たちの上にあるんだ。イスラエルの国を滅ぼされ、主の神殿を破壊され、違う宗教の外国に連れてこられて捕囚になって。私たちはこのまま滅びていくんだ、主に捨てられて生きることはできないから。
そう思っていたイスラエルに主は「違う、違う、違う、違う、そうじゃない、君を(滅びに)渡さない」と言ってるんですね。
公平って
誰が救われるかがあらかじめ全部決まってるのだとしたら、不公平だと思う?
そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスのあがないのわざを通して、神の恵みにより無償(タダ)で義とされるのです。(ローマ3:22-24)
もし救われることが人間の権利なら、救われる権利が一部の人にだけあらかじめ与えられているのは不公平だと言えるかもしれません。
でもそうじゃない。人間はみな公平に、自分の罪のために滅びるんです。
もともと人間が創造された時には、神は「よし」とされました。人は永遠に神と共に生きるはずでした。デフォルトはすべての人が天国だった。
けれど人の中に罪が入ってしまった。このためすべての人にとって滅び、地獄がデフォになってる。
だけどそれでも、神である主は人を愛して、罪を離れて方向転換してイエスを信じて天国に来てほしいんだ。
予定論が正しいのか、どこかに間違いがあるのかは、難しくてぼくにはよくわからないです。あとで牧師先生に聞いてみてください。
ただ、主はエゼキエルにこう言っています。
主が、ある人に「お前は必ず生きる。天国行きが決まっている」と言ったとして。その人が「私は正しいと主が言っているから、少しくらい悪いことしても大丈夫だ」と考えるなら、その悪のためにその人は滅びる。
主が、ある人に「お前は悪人だから必ず死ぬ。地獄行きが決まっている」と言ったとして。その人が悪から離れて正しい生き方に方向転換するなら、その人は必ず生きる。地獄に行くことはない
わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。
また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。
(エゼキエル書33章13-17)
主は、私たちを救って天国に入れることができるし、そうしたいと望んでいる。
私たちは、主に応えて救われて天国に行くことも選べるし、主を断って救われないことを選んで地獄に行くこともできる。
主は信じる者しか救わないセコい神様じゃないんです。
私たちを救いたい主を、私たちが応えるか断るか、なんです。
主は、信じる者を一人残らず救うことができるし、そうしたいと思ってぼくたちやぼくたちの周りのすべての人を待ってる神様なんだっていうことを、忘れないでください。
じゃ、また来週。