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エマオの晩餐【ルカ24:13-35】【やさしい聖書のお話】

2023年4月9日(日)の教会学校でのお話をもとに。

消灯礼拝とイースター礼拝

イエス様の復活おめでとうございます。

受難節の6週間、千葉バプテスト教会では6本のキャンドルを毎週1本ずつ消して、先週の受難週日曜日にすべてのキャンドルが消されました。キャンドルは悔い改めをあらわす紫色でした。

受難節第6主日のキャンドル(画像は2018年のもの)

でも今日、復活の日曜日は、6本のキャンドルがすべてともされて、光であるイエス様のよみがえりを記念します。キャンドルの白は、神の栄光を表す色です。

復活主日のキャンドル(画像は2018年のもの)

今日の聖書のお話はイエス様が復活した日のできごとです。

なぜエマオに?

この日の朝、女弟子たちが、イエス様の墓が空っぽになっていることを見つけて男弟子たちに伝えました。彼女たちは、「天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた」と男弟子たちに教えたのです。
男弟子の何人かがイエス様の墓に行ってみると、女弟子たちの伝えたとおり空っぽでした。

そして12弟子とは別の2人の弟子が、エルサレムを出てエマオという町に向かいました。エマオはエルサレムから約11㎞です。

ちょっと待て!

十字架で殺されたイエス先生のご遺体がなくなってしまって、何が起きてるのかわからない、という状況で、なんで?
なんでこの状況で、他の弟子たちと離れてエルサレムを離れられる?

この2人がエマオに向かって歩いていると、いつの間にかイエス様が一緒に歩いていたのです。
イエス様が生きていることも本当は不思議だけど、それはもういいよね。常識では死んだ人間が生きて歩いてるなんてありえないけど、天使が告げた通りイエス様はよみがえったとしましょう。
ただ、イエス様もエルサレムからエマオに向かって歩いてるのは、なぜ?しかもエマオより先に行こうとしてるんだ。

どこに?
何をしに行くの?

エルサレムでは弟子たちが「イエス様のお体がー!」てなってるよ。
「イエス様は復活した」って天使に言われた女弟子たちも、「じゃあイエス様はどこー!」てなってるよ。

イエス様によるイエス様の説明

でもって、二人の弟子は、イエス様が一緒に歩いてるのに、イエス様だと気づかないのね。
でもこれは不思議じゃないんだ。「目がさえぎられていたのでイエスだとはわからなかった」と書いてある(これについてはあとで)。

イエス様は二人に、旧約聖書が救い主についてなんて言っていたかを説明しながら歩いて行った。
11kmだと、平地なら大人の足でも2時間半から3時間くらい。エルサレムからは下りの山道だから歩きにくかったとしても、長くて4時間くらいかな。
その間にイエス様は、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」したんだって。

当時は新約聖書はまだないので、「聖書全体」というのは今でいう旧約聖書の全体ということ。
あと、この場合の「モーセ」は旧約聖書の律法のことで、旧約聖書の最初の5巻(創世記~申命記)のこと。「預言者」とは旧約聖書の預言者のことで、新約聖書で「モーセと預言者」といったら(ほかに詩編などもあるけど、ひっくるめて)旧約聖書全体のことです。

つまり、旧約聖書全体が、来たるべき救い主について説明しているということです。イエス様もこう言っていました。

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

ヨハネによる福音書5:39(新共同訳)

でも、聖所全体からたった4時間で説明しちゃうって、さすがイエス様。自分自身のこととはいえ。

イエス様はどこへ?

二人の弟子がエマオの宿屋に入ろうとすると、イエス様は先へ歩き続けようとする様子。
二人は「だれだかわからないけどこれはすごい先生だ」と思って、一緒の宿に泊まってくださいと無理に引き留めたんだ。
先に行こうとするイエス様も、それを無理に止める二人も、なかなか強引というか。

それにしてもイエス様はどこに行こうとしてたんだろうね。
復活したイエス様とガリラヤで会える、と天使が告げたから、イエス様はガリラヤに向かっていた?でも、ガリラヤはエルサレムの北で、しかも普通はエルサレムから東に行ってヨルダン川沿いを北に向かうんだ。
エマオの正確な位置はわかっていないけれど、エルサレムの西にあったと考えられているらしい(クリスチャントゥデイ「エマオの場所特定か」参照)

イエス先生だ!

そして宿で一緒に食事をしたとき、イエス様がパンをとって、賛美の祈りを祈って、そしてパンを裂いて二人に渡したその瞬間「イエス先生だ!」てなったんだ。さえぎられていた二人の目が開いたんだって。
カラヴァッジョ作「エマオの晩餐」は、二人の弟子が「イエス先生だ!」て気付いた瞬間を描いたのだと思う。向かって右の弟子は「えーっ!」て感じで絵から飛び出そうなほど腕を拡げて、向かい側の弟子は椅子ごと吹っ飛びそう。カラバッジョの最高傑作といわれるのもわかる。

カラヴァッジョ『エマオの晩餐』ロンドン・ナショナルギャラリー

面白いのは、宿のおやじらしき立ってる人は何もわかってない感じなのと、なぜかイエス様がふっくらした顔にに描かれてること。個人的に好きです、この絵。

見えるということ、見えないということ

二人が「イエス先生だ!」と気付いた瞬間、イエス様の姿が見えなくなりました。
もう夜だったけど、二人は宿を飛び出し、エルサレムへの山道を登っていって、男弟子たちに「イエス先生が生きてる!」て。
そしたら11人も「イエス先生、生きてるぞ、ペトロが会ったって」という。

復活のイエス様にペトロだけが会った場面は、福音書にはありません。でもパウロも「まずケファ(ペトロ)にあらわれ」と書いているので(1コリ15:5)、男弟子の中ではペトロが最初に会ったようです。

さて。
二人の弟子は「目をさえぎられていたので」、イエス様が見えているのに、イエス様だとわからなかった。
イエス様がパンを裂いたときに「目が開かれて」、イエス様だとわかるようになったら、イエス様が消えて見えなくなった。

イエス様が生きていることを信じられないうちは、神様が二人の目をさえぎってたから、イエス様が見えているのにイエス様だとわからなかったのです。
イエス様は生きていると知ったら、イエス様が見えなくなっても、信じたままでした。

「神がいるというなら見せてみろ」なんていう人もいるけど、そういう人は目がふさがれているから神様がわからないんだね。
ぼくたちは神様を信じている。目が開かれていて神様がわかるから、神様が見えなくても信じられる。

じゃあ、イエス様を信じない人は、神様が目をふさいでるせい?
誰が信じるかを神様が決めていて、「こいつの目はあけてやろう」「こいつの目はふさいでおこう」てやってる?

実はそうなんだ。
でも実はそうじゃないんだ。

信じるから救われるのか、定められているから救われるのか

聖書には、聖霊様が「イエスは主だ」と教えてくれないとイエス様を信じることはできないとか(コリント一12:3)、神様があらかじめ定めた人を救うとか(ローマ8:30)、神が選んだ者が救われる(エフェソ1:4-9)といったことが書いてある。

でも一方で、自分で「イエスは主だ」と言って信じる者が救われるとか(ローマ10:9)、信じればあなたは救われるしあなたの家族も救われる(使徒16:31)とも書いてある。
イエス様も、神に招かれているのに断ってしまう人が多いことを教えている(ルカ14:15-24)。

人が信じて救われるのか?神が決めた人が救われるのか?
どちらも聖書に書いてあることだから、どちらも正しいんだ。

人間が自分の力で神様を見つけて、イエス様を信じて、救われることはできない。
でも神様が、人間の心や意志を無視して救うこともできない。それは神様のやり方ではない。

すべての人のつくりぬしである主は、すべての人に救われてほしいと思っている。
でも救われるかどうかは人間の意志、心、信仰。
でもその信仰は神様から与えられる。

人の目を神様がふさいでいるとしても、それは人が信じていないからなんだ。
主が人の目を開くときは、人が「イエス様だ!救い主だ!」て信じたからなんだ。
どっちが先かじゃなくて、どっちもなんだ。

イエス様はぼくたちを救おうとして手を伸ばしてくれてる。
ぼくたちは助かりたくてイエス様の手にしがみつく。
どちらかだけだと助からない。

聖書は、イエス様が花婿で、ぼくたちは花嫁だと教えている。
救いって、花婿イエス様と花嫁であるきみの共同作業なんだ。

救いは、花婿イエス様と、花嫁との共同作業

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年4月9日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


 
 

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