信仰について-人間(後編)【バプテスト初歩教理問答書】
第29-34問、アダムとエバが神にそむいたことについて。
Ⅱ 信仰について (2)人間
第29問
創世記は確かに、上記の答のように記録している。
さらにパウロは、「教会では女はひっこんでるべき」といったことを書いた上で、その理由として次のように書いている。
これらによって教会は「聖書が女は男より下だと言っている」としてきた。キリスト教の男尊女卑の根拠のひとつだ。
ところがパウロは、ローマ人への手紙5章12以下では徹底して、一人の人アダムによって世に罪が入ったと論じている。それについては第31問,第32問で扱われているのだけれど、そこではアダムが原因であるとして、エバなど出てこない。
この違いは、テモテが牧会していた教会とローマ教会とがそれぞれかかえていた問題の違いからなのだと思う。その上で、教会あての公開の手紙であるローマ書が一般論、弟子であるテモテへのいわば非公開な手紙は特殊事情に考慮したもの、と考えたほうが聖書全体として筋が通ると思う。
いずれにしても、こどもたちにわかりやすいようにということで編まれた教理問答書で、「エバがだまされ、アダムを誘った」という教え方には疑問しかない。
第30問
象徴的なのは、裸であることをネガティブなことと考えるようになったこと。
神が創造した世界はすべてが「よし」だった。そのとき人は服を着ていなかった。神が創造した肉体こそ、誇るべき美しい神の作品だった。
だから古代ギリシャ彫刻やミケランジェロ作品など肉体美の表現に感動するのだろう。ボディビルダーの肉体は努力と工夫で人が造り上げるものではあるけれど、それも肉体そのものの美しさを追求するものなのだろう。
それが罪によって、すべてを美しく創造した神への反逆の結果として、肉体をさらすことを恐れるようになった。
「裸であることを恥ずかしいと思うようになった」とも解釈できる。ノアの時代には、父親が息子に裸を見られることさえ、ありえないほどの恥辱となる(創世記9:20-25)。
けれどこの時のアダムは「裸であるのを恐れて」と言っている。神に見られること、見つけられてしまうことを、恐れなければならなくなった。これほどのギャップ、これほどの転落はない。このあとエデンを追い出されるのだけど、これは楽園を失った「失楽園」である以前に、神との素晴らしい関係をみずから損ねた物語というべき。
第31問、アダムと同じ状態
この「アダムと同じ状態」の解釈が難しい。
原罪とはいったい何なのか。私は原罪思想というものについて腑に落ちたことは一度もない。
第32問、私は原罪がわからない
「アダムが受け継ぐ罪深い性質」とは何なのか。
具体的な罪を犯していなくても、「アダムが受け継ぐ罪深い性質」とやらがあったらアウトなのか。
だったら幼児洗礼は必要だろう。信仰告白する前に死んでしまった子は、何もしていなくても「罪深い性質」のために裁かれてしまうことになる。
「いや、自覚的な信仰がなければ」というなら、「でも自覚的な罪がまだなくても、罪深い性質があったらアウトなんでしょ」となる。
生まれる前に死んだ子はどうなる?キリスト教にも水子供養的なものが必要なんじゃないのか?
でも一方で、イエス・キリストの名のほかには救いは無いということは聖書がはっきり言っていること。
信仰告白の前に死んだ子だろうと、生まれてくる前に死んだ子だろうと、イエス・キリストの名による救いが必要なのは確か。
それを説明するのに原罪思想というよくわらかないものを考え出したのが問題なんじゃないだろうか。
第33問、罪の結果
罪と死について聖書に書いてあることをまとめると、
・アダムによって、罪がこの世に入ったこと。
・すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったこと。
・イエス・キリストの名による救いが必要であること。
これだけじゃないか?
罪と死をアダムから受け継いだって、書いてあっただろうか。ちょっと思い出せない。
アダムによって、「罪と死のない世界」だったのが「罪と死から逃れられない世界」になっただけじゃないの?
明らかにアダムの子孫ではない動物たちも死ぬようになったのだから、「アダムから受け継いだ」で説明するのは無理があると思うんだよな。
人(アダム)によって、この世界は「罪と死がある世界」になってしまった。そんな世界に生きるすべての命は死をまぬがれない。
でもイエス・キリストの名による救いが与えられた。意識して罪を犯した者も、知らないうちに罪を犯した者も、罪を犯す前に死んだ者も、(そしておそらくは動物たちも)イエス・キリストの名によって救われる。
これだけなじゃないかな。
第34問、噛み合ってなくない?
聖書箇所はイエスとニコデモの議論の個所なんだけど。
問は「この罪深い性質のままでよいのか」
答は「心が変えられなければ」
これ、「罪深い性質のままでも心が変えられれば」という問答になってるよね。
「罪深い性質」が問題だというなら、「罪深い性質」が解決されなければならないはず。
それをもたらすのが、十字架のあがないなんじゃないだろうか。
イエスは主であると信じて洗礼を受けても、人が「罪深い性質」から解放されることはない。パウロでさえ「望む善を行わず、望まない悪を行ってしまう」と書いてるくらいだ。
言い換えれば、イエスは主であると信じても「罪深い性質」とやらは解決されない。「罪深い性質」理論は破綻してないか?それが原罪論だとするなら、その原罪論は破綻してるんじゃないか?(私は、破綻してるだろといえるほど現在論をわかっていないけど)
イエスの十字架が解決するのは「罪深い性質」なのか「罪」なのか。
次の第35問からキリスト論に入るので、このあたり考えてみたい。
少なくとも聖書には「罪」は出てくるけど「罪深い性質」は出てこない。
次回は
次回から「信仰について」の章の「(3)キリスト」に入ります。
第35問~第54問の計20問あるので、何回かにわけていきます。
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