憩いの水のほとりで【詩編23】【やさしい聖書のお話】


〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の原稿を再構成したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕

今週もダビデが作詞作曲した歌です。
詩編23編。もしかしたらこれは、世界で一番有名な詩かもしれません。
ぼくは教会幼稚園の時にみんなでこれを暗唱したのを、今でもおぼえてます。

ピンチの連続だったダビデ

この詩でダビデは、まず主が私をどのように扱ってくれているかを歌います。
そして、だからどんなピンチになっても、主がわたしとともにいてくれるという確信を歌うんです。

この歌をダビデがいつ作ったか、はっきりしたことはわかりません。
ただ、ダビデの人生はピンチの連続でした。

サウル王の王女のミカル姫と結婚したと思ったら、サウル王に殺されそうになって逃げだしたり。もう何度も殺されそうになった。

イスラエルの王様になったあとは、息子のアムノン王子が妹のタマル姫に乱暴なことをして、怒った別の息子のアブサロム王子がアムノン王子を殺したり。
このアブサロム王子が父ダビデを裏切って反乱をおこしたので、ダビデは息子と戦争しなきゃならなくなって。で、アブサロム王子は殺されてしまう。

自分の罪のせいで、イスラエルが主からの災難を受けたことも。

主のためにエルサレムに神殿を建てようと思ったら、主から「お前は戦争でたくさん殺したから、わたしの神殿を建てることは許さない」って言われてしまう。

ダビデが年をとってもうすぐ亡くなるというときに、アドニヤ王子が勝手に王になろうとして、結局次の王になったソロモンがアドニヤを死刑にする。

神様に守られて戦争にもたくさん勝ったけど、危険な目にもいっぱいあって、子供たちが殺しあうという親として一番悲しいことが何度もあって。
そんなダビデが作った歌だと思って、詩編23編を読むので聞いてください。

※ 上記リンクの動画中では今回も、神様の名前が書いてあるところは「主」を神様の名前の「ヤハウェ」に直して読んでいます。

賛歌。ダビデの詩。
主(ヤハウェ)は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主(ヤハウェ)はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。

主(ヤハウェ)は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主(ヤハウェ)の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう

ダビデの気持ちを想像してみる

前半は、羊飼いが羊の世話をするように、わたしの羊飼いである主がわたしを生かしてくれるということを歌っている。
後半では、だからどんなことがあっても恐ろしくないし、どんなやばいときも羊飼いである主、あなたがわたしをよくしてくれるって信頼を歌う。

で、これは感じ方の話だから正解はないのだけど。
ダビデはこの歌を平和なときに作って、「もし苦しい状況になったとしても」と歌ったんだろうか。

ぼくはそう思わないんだ。逆に、ダビデが人生の中でとても苦しいときに「でも主はわたしの羊飼いだから大丈夫」という気持ちをこめたんじゃないかなと思う。

共にいる神

ダビデよりものちの時代、主は預言者イザヤをとおして、救い主メシアは「インマヌエル」と呼ばれる、と告げます。インマヌ・エルは「神がともに」という意味です。


ダビデは、自分がどんな災いも恐れないのは「あなたがわたしと共にいてくださる」からだ、と歌っています。
「あなたが、わたしと共に」は、「アター・インマイディー」です。インマイディーとインマヌは同じ言葉から来ています。

イザヤが告げた「インマヌエル」
ダビデが歌った「インマイディー」
神であるヤハウェはどこか遠くにいるのではなく、共に、一緒にいるんだと、イザヤもダビデも言ってるのです。

わざわいを恐れない

ダビデがこの歌をつくったとき、「わざわい」という言葉で具体的にどんな状況を思って「わざわい」と言ったかはわかりませんが。

今、「わざわい」といえばコロナ禍ですね。「禍」の訓読みはまさに「わざわい」です。

わたしたちはわざわいを恐れません。コロナ禍というわざわいもね。
といっても「信仰があればコロナにかからない」という意味ではありません。正しく予防することは大事だけれど、聖書の神様を知らな人たちがコロナを必要以上に恐れて右往左往しているような恐れ方は、私たちは必要ない。

愛には条件がない

ダビデは、敵に囲まれていても主がもてなしてくださると歌いました。
でもダビデは「だから主に従います」という考え方の人ではありません。主が羊飼いで自分は羊、主が導いていくところに従っていく、ということをまず歌っている。

ダビデだけでなく、聖書に出てくる信仰者たちは「主がこうしてくれるから主を愛します」という人たちではない。
危険な時にも、「主は私を助けることができるけれど、たとえ主が私を助けなくても私は主に従う」という人たちです。

愛って、そういうことですよね。
相手が人間でも神様でも「こうしてくれるならあなたを愛します」というのでは、それは「愛」ではなくて「取引き」です。

主に祈り続ける。主は祈りをかなえることができると信じている。でも「祈りをかなえてくれるから信じる」ではない。聖書の信仰者たちは、主と取引きしたのではなくて、主を愛したんです。
そして、取り引きではなく愛で主とつながっているからこそ、どんな状況でも大丈夫だと信じられた。取引なら条件によっては裏切ることもあるかもしれないけれど、愛には条件も裏切りもない。

その主が私たちも愛している。だから私たちも大丈夫。
ダビデの神であるヤハウェは、私たちの神。
ダビデを愛した主は、私たちを愛している。
そんな主に私たちは、どんな祈りをささげたらいいだろう。
どんな賛美の歌をささげたらいいだろう。

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