トイレの仏様

2018年の年明けごろ、私は私の中の全てを見た。

ある日、ある時、過去のすべての記憶が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、それは一本の糸のように現在の自分につながった。未来まで見えるような感覚だった。
それまで私は結構割りを食うタイプの人間だったので、他人を恨むことがよくあった。しかし細部に渡る全てを思い出したことで、この人生は何もかも自分で選んできたものだったのだと知った。これまでたくさんの過去の失敗を悔やんできたが、それは今この瞬間に辿り着くためにすべて必要なことだったということも理解した。自分は何も間違ってなかった、間違いは必要だったから、間違いではなかった。全ての出来事があって今の自分がいる。その瞬間、ものすごい多幸感に満ちていた。

その日の朝、私は自分がよくわからなかった。今まで自分がどうだったかを忘れたのだ。記憶はあるが、自分が何を考えながらどういう振る舞いをしながら生きていたか思い出せなかった。家族への接し方、食事のペース、身体の感覚、何もかも違った。OSがバージョンアップして変わり果てたスマホみたいだった。それからゆっくり一つ一つ新しい自分に慣れていった。あんな経験は人生に2度あることではないと思う。あの現象が何だったのか、知っている人がいたら教えてほしい。私は「悟り体験」と呼んでいるけど。

私の記憶の蓋が開く直前、私は自分の人生において一つ大きな解釈違いがあったことに気づいた。それがきっかけで30年かけてネガティヴに捉えていた人生の記憶が、新しい解釈にファーッと上書きされたのだ。多幸感に満ち溢れたのは、30年分のストレスから一気に放たれたからなのではないかと思っている。

その日から私は何もせず10kg痩せた。どうしても治らなかった早食いが治った。それで痩せたのだ。満腹になれば食事をやめられるようになった。それまではきっと潜在的に抱えていたストレスが、脳の反応を鈍らせていたのだ。ダイエットに最も必要なことはストレスを溜めないことなんだと身に沁みて感じた。

今はあの体験とその後のことを思い出しながら書いているけど、人に伝えるのは本当に難しい。頭がおかしいと思われる。私もあの時は頭がおかしくなったと思ったもんね。あれからまた少しずつ新しい自分が溜め込んだストレスによって身体が丸くなってきた。私はまだ私の自由に辿り着いていない。私はまだ、私を探している。

ところで私はこれをスピリチュアル体験ではないと思っている。私が辿り着いた答えは、人間のすべては脳の中にあるということだ。一度あったことは事細かく脳に記録され、そこにあるのだ。ほとんどのことは忘れているのではなく思い出せないだけなのだと思う。千と千尋の銭婆が言っていたのはこういうことだったのか!と。

あくまで私の経験則だが、おそらくこの「記憶から引き出す回路」を鍛えるのが、1日百万回唱えると頭が良くなると言われるマントラ
「ノウボウアキャシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」なのではないだろうかと思っている。これは虚空蔵菩薩の真言で、前述した通り頭が良くなるお経として結構有名らしい。私の母が人生に悩み自己啓発にハマった頃、つまり私が中学生くらいの時から実家のトイレに張ってあった。最近になってこれは一体どういう意味だったのだろうと調べてみたら虚空蔵菩薩に辿り着いただけで、実は母も私も菩薩のことをよく知らない。母曰く何かの本に書いてあったらしい。別に虚空蔵菩薩じゃなくても、お経のような意味のわからない言葉を唱えることで頭が無になり、それが脳にとてもいいのだという。

それでなるほどと思った話。私は今アパート暮らしなのだが、下の階の住人がお経を早口で30分ほど唱えるのを朝、昼、晩とやっているのが聞こえてくる。その筋の方に言わせると、某有名な新興宗教の修行みたいなものらしい。
私は誰が何を信仰していようが自分に害がなければ気にならないので「へぇ〜」と思っている。それでこの住人がすごい。素晴らしく書道に長けており、また同じ間取りと思えないほど部屋が整っている。うちと同じ広さの部屋で、公文の教室を開いている。うちにそんなスペースはない。

自己啓発と宗教とネットワークビジネスには似通ったものがあり、これらの話題にはアレルギーのような拒否反応をする人がほとんどなのだが、個人的には学問のひとつとしてかなり興味深いジャンルだと思っている。ここ半年ほど宗教関連の話題がよくニュースに上るが、信仰はその人の自由であると私は思う。ただ、それが自分で辿りついたものでないなら、その人はただ他人の言葉に踊らせれているだけの哀れな人だ。それで人に迷惑をかけたり、子どもを不幸にしたり。そういう悪い部分が今は世間に騒がれている。信仰は自由だが、自由の範囲がどこまでを指すのかが明確にされていないので多くの問題が起きている。

私の中にも信仰心はあるが、信じているのは己の経験が主軸だ。私は他人がいう神も仏も信じていない。強いて言うなら私の教祖は母であるが、母の言うこともすべてを信じているわけではない。母は死後の世界をあるとしながら生きている。一方私は今のところ、完全にないつもりで生きている。これは死との距離の違いであると思う。私も歳を取れば考え方が変わるかもしれない。

信仰のことはさておき、お経を唱えることで煩悩が滅され頭が賢くなるというのはあるかもしれない。私が人より昔のことをよく覚えているのは、トイレのマントラの効果かもしれない、なんて思っている。

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