page9 向き不向き
結婚の申し込みは受け入れられなかった。男には十分な蓄えと貧しくはない生活を維持するだけの収入があったが、結果的に5年を経た交際期間のさらなる延長を待つまでもなく、男に他人との共同生活が不可能であることが明らかになった。後に女は友人に語った。「あの人は自分以外に興味がないのよ。まったくと言っていいほど。むしろどうして結婚しようなんて考えが浮かんだのか、不思議で仕方ない」。
男は、ひとりで暮らすには随分と空間を持て余しそうなマンションの一室にいた。それは女と暮らすために借りた部屋だった。女と同棲をはじめるにあたり、家具や家電は互いがこれまでに使ってきたものを持ち寄ることになった。しかし一つだけ何か、この“新居”のために購入しようという話になり、革張りのソファーを買った。ソファーの代金は男がすべて出した。
男は過去の記憶で頭を満たしながら、ソファーに身体を預け、缶ビールを開けた。ソファーの横に置かれた小さな丸テーブルの上には、一枚の写真が置かれている。写真には、ソファーに座って笑う女が写っていた。はじめてソファーが届いた日に撮ったものだ。男は目を細め、遠くの看板でも見るように写真を眺めていた。缶ビールはすっかり汗をかいている。「まったく君の言うとおりだよミーちゃん。名前さえ思い出せない」。黒猫は黄色い目を重そうに開くと、男に向かって短く鳴いた。
(小説『百通りの失敗』より)
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