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連帯

とあるチェーンのファストフード店へ入る。
昼時でそれなりに混雑していたが、カウンター席は全5席で、両端だけが埋まっている。両側ひと席ずつ空いているとうれしい。会計が終わったらあの真ん中の席に座ることにしよう。

ここ数年の「ディスタンスこそ正義」という風潮から、近頃では真隣に見知らぬ人が座ることにいささかの抵抗を抱くようになってしまった。もちろんそれは、そこまで大きなものではない。ただ「近いな」とか、「隣に人がいるなあ」とか、わずかに、でも確かに感じる程度のものである。

レジでの注文を終えて席に着く。上着を脱ぎ、鞄を右脇に置く。ブレンドコーヒーを飲む。ほおっと息をつく。たまにはこんな風にゆっくりコーヒーを味わうのもいいものだ。
トレーに乗ったベルに目をやる。注文した残りの商品ができたら、このベルが鳴る。ここの店はきれいでサービスもいいのだが、このベルの音がちょっとびっくりするくらい大きいのだけは、何とかならないものかといつも思う。
遅く起きて何も食べずにこの時間になってしまった。早く食事にありつきたいものだ。

さてひさしぶりにnoteでも書いてみますかね。
スマホを取り出し、コーヒーをなめなめ、何かいいネタはあったものかと頭を巡らせる。書き溜めておいたネタを見返しながら、今回はどれで書こうかとしばし悩む。

すると、右隣に客が座った。「おお」と思う。「来たな」とも思う。そりゃあお昼時だし、店内の他の席も埋まってきているし、この席を選ぶのにも納得だ。鞄を左側に置き直す。コーヒーをもうひとくち、とカップを手にすると、左隣にも客が座った。
「まじか」と思う。「来ちゃうのかよ」とも思う。カップを置き、あわてて鞄を膝の上に置いて、きゅっと抱える。

これで全5席のカウンター席がぜんぶ、びっしり埋まった。左右にはぎっしりと人。しらない人と人。パズルゲームだったら、5つ揃ってきれいに消えてしまうところだった。あぶないところである。

カウンター席のいちばん左端に座る客のベルが鳴った。いつもながらに信じられない音量だった。わたしは慣れている。「ああ、あっちで鳴ってるな」と思う。たぶんそろそろ自分も呼ばれるだろう。

すると両隣の客が同時に腰を浮かせた。
だが左端の客がベルを手にして立ち、レジの方へ向かうと、彼らはしずかに腰を下ろし、おしりをもぞもぞとさせた。
わたしの両隣で同時におこなわれるその動作が、あまりにもシンクロしていたので、すこしの感動を覚える。彼らは何ごともなかったようにスマホに目を落としている。

わたしは手元のベルをじっと見る。「鳴っちゃうのかい?」と思う。これが鳴ったらどうなるのだろう。あっちの左端で鳴ったのも勘違いされたのだ。このベルが鳴ったなら、またしても両隣の客は腰を浮かし、そしらぬふりしておしりをもぞもぞさせるのだろうか。

ベルが鳴った。わたしのベルが鳴った。真っ先に立ったつもりだった。しかし両隣の客も同時に腰を浮かせた。結果見事に3人で、ぴったりとシンクロしてしまった。
すると右の客のベルが鳴り、続けて左の客のベルも鳴った。わたしと、そして両隣の客は、なぜか揃っていちど腰を下ろした。そうしておしりをもぞもぞとさせる。
どうかパズルゲームであってほしかった。わたしたち3人、揃って消えてしまいたかった。

そこからもちゃもちゃ、わちゃわちゃと各々がレジへ商品を取りに向かい、並んでハンバーガーをかじった。もそもそとポテトを口につめこんだ。あんまり味がしない。おいしいはずなのに、自然発生してしまったシンクロのことを思い返して、気恥ずかしさを感じてしまう。

両隣の客も、さらにはカウンター席の左右端に座っている客も、そしてわたしも、5人揃ってハンバーガーをかじっている。「給食」という2文字をひさしぶりに思い出す。なんならカウンターだけじゃないね。この店みんなハンバーガーだったね。
続いて「連帯」という2文字が思い浮かぶ。あまり関わりのない職場の人よりも、ひさしく会っていない親戚よりも、いまわたしたちは連帯しているのかもしれない。つながりたくないつながりを、期せずしてもってしまった。それってなんだか恥ずかしくてしょうがない気がしてならないのだ。

ぱくぱく、せかせかと平らげて店を出る。
腹の中でまだ、あのベルが鳴っている気がする。
これからまだしばらくの間、わたしの腹の中にベルが居座り続けるのかもしれない。
そしてときおり、ものすごくでかい音量で鳴り響くのだ。わたしの体の中で。

寒いと空気が澄んでいるような気がする。
口の中がやたらと塩辛くてしょうがない。
いそがなくてもいいのに、やけに急いで歩いて電車に乗り、ここではないどこかへと体を移動させた。