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バナナ哲学

 東銀座の路地裏に店を構えるバナナジュース専門店。

 ここのバナナジュースは本当に美味しいと思う。私が初めて飲んだとき、バナナそのものが出せる最大限の甘さと粘度と濃厚さに、驚かされた。バナナで驚くって何事。
 私にとって、バナナ=朝食の代用。眠気と戦いながらモサモサと口を動かし惰性で食べるもの。まさか、今更バナナの秘められた可能性に気づき、心の底から美味しい!と思う日が来るとは思いもしなかった。

 このお店はネットニュースで紹介されているのを見たことがあるから、人気店に間違いない。ちなみに、アルバイト先の引き継ぎのノートには、卒業された先輩がおすすめのトッピングとフレーバーを書き留めて去っていった。代々、みんなのお楽しみとしても受け継がれ、飲まれている。ぜひ飲んでみてほしい。

 とある、バイトの休憩時間。仕事に追われて昼ごはんを食べ損ねてしまったので、今日は一食分をバナナジュースで済まそうと思う。なにしろぎゅっと詰まっているので、これだけで十分満腹になる。早速お財布を持って、いそいそと外に出た。

 徒歩数分。あれ、いつもの路地裏がやけに寂しいと思ったら。

「バナナが完熟にならなかったので本日はお休みします」

 非常にショックだ。悲しい。きちんとお知らせしてくれているはずだから前もってSNSで確認するべきだった。
 まあ、でも完熟にならなかったのならば仕方ないかという有無を言わせない説得力。謎の納得感。改めて読んでみたら良い文言だ。最高の状態のものをお客さんに提供したいというサービス精神とプロ意識が感じられる。ビラの前で一人唸るしかない。

 帰路につきながら「完熟」という言葉に想いを巡らせる。しかるべき時が来るまで、急かさない、無理をしない。遺憾無くポテンシャルを発揮できるその時までは大事に寝かせておく。
 残念ながら、「完熟」を待ってくれる場面は人生の中で少ないなーと思う。もちろん時間さえかければ完熟になるわけでもないし、何を持って完熟というかは人それぞれだ。

 私にとっての完熟は、自分で自分のことを知り尽くしたと悟れる時であると思う。何を綺麗だと思うセンスを持っているか、自分はどこまでやれるのかが、完璧に分かって行動できれば、私は、何も躊躇うことはなく、ベストな自分で楽しく生きていけるだろう。

もうわかっている。私の定義上ならば、あと1年半で完熟することはきっと不可能で、一生かけてももしかしたら完熟しないかもしれない。

 21歳。早期化の波にまたもや揉まれていく。
 誰かが「学生らしさが大切だ」と言った。熟しきっていないフレッシュな若者が求められているけれど、熟していない若者は決して求められていない。そこが難しいところだ。
 自分が熟すことを助けてくれる人間や環境に出会えたら最高なので、それを探して今のところは進み続けるしかないかなと思う。でも私もみんなもフルーツなんだから、ただでさえ美味しい。熟す機会だと言って自ら傷を作らなくていいと自分にも言い聞かせる。
 もしうまくいかないときは、「完熟にならなかったので本日はお休みします」の心持ちでいたい。私に眠っているもっと美味しい部分に期待してもらいながら、ベストなタイミングで最高に美味しいバナナジュースになるべく、熟していきたいと思う。


 


 

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