11.ふわふわも好きだ
私の人生を年表にするなら、2008年の欄には「丸亀ショック」の記載がなされることだろう。それくらい丸亀製麺との出会いは衝撃的、人生の一大事だった。
丸亀に出会うまで、私にとってうどんとは「やわらかい」食べ物だった。学食や地元の食堂で提供されるうどんは決まってやわらかかったし、家でコンロから直接火をかけて作るアルミの鍋焼きうどんも勿論やわらかかった。「うどんはやわらかい食べ物」。そう信じて疑わずに30数年生きてきたのだが、その常識は丸亀との出会いによって覆された。今までに食べた事がない圧倒的コシの強さ。うどんに対する概念が変わった。まさに革命だった。
それは1985年に記載されて然るべき、「ソーセージの皮がパリッとしてる!」と子供心に驚愕した「シャウエッセン・ショック」や、「インスタントラーメンなのにツルツルの麺だ!」と、生タイプ麺に感動した1992年の「ラ王ショック」に匹敵する、既存の食べ物に対する概念の刷新だった。
2008年は全国的に讃岐うどんブームが一気に加速した頃だったと記憶している。当時は関東に住んでいたので、世の中の讃岐うどんに対する熱狂を肌で感じる事が出来た。街中で「うどんはコシがあった方が美味い」と叫ばれ始めていたあの頃、丸亀製麵を始めとして「楽釜製麺所」「はなまるうどん」「親父の製麺所」等々、讃岐系のうどんを出す店が続々とオープンしていたのを覚えている。それはすごい勢いだった。自宅と職場の最寄り駅、駅ビル、オフィスビル、ショッピングセンターに商店街と、私の把握できた範囲の中だけでも雨後の筍のように讃岐うどんの店が出店され、あっという間に街中が讃岐うどんだらけになった。それはまさしくバブルだった。コシのあるうどんという金脈を見つけた企業達がゴールドラッシュを夢見て、目の色を変えていた狂乱の時代だった。
そんな讃岐うどんブームの余波を受け、私の自宅最寄り駅近くに楽釜製麺所ができた。「東京チカラめし」の運営会社がやってたうどん屋さんで、丸亀よりも更にハードな食感のうどんを出すのが特徴だった。と言うか、ハード過ぎた。噛んでいると、小さなくまのデザインでお馴染みの「ハリボーグミ」が頭をよぎる代物だった。なので、正直食べてると顎が疲れた。日本人の咀嚼力ランキングで上位ランカーに入ってる、咀嚼にかかわる筋肉である側頭筋、咬筋、外側翼突筋、内側翼突筋が鍛えられまくってるタフガイたちじゃないと普通に食べられないのではないかと思えた。もやしっ子がそのまま大人になったような私や、歯や歯茎に多少の問題を抱えているご高齢の方には難易度が高すぎたので、近場なのにあまり通わなかった。
ちなみに、すでに全店閉店したらしい。経営陣が日本人の咀嚼力を過大評価した結果の悲劇だろうと私は推測する。
こうして加熱していった讃岐うどんブーム。ブームはやがて飽和状態となり、バブルが弾けるのが常だ。近年では過度に集中していた地域の店舗数が減ったり、撤退したチェーンが出て来たりと、だいぶ落ち着いて来た感がある。
讃岐うどんブームは過ぎた。しかし、「コシの強いうどん」という食文化の世間への定着化は見事に成し遂げたような気がする。タピオカ屋さんや高級食パンみたいにならなくて良かった。あれらはまさに「死屍累々」としか言いようのない惨状だから胸が痛む。
今ではどの街に行っても丸亀やはなまるの看板を見かける。おかげで常にコシのあるうどんを頂けるようになったのだが、「丸亀の呪縛」と言うべきだろうか、外食時のやわらかいうどんを軽んじるようになってしまった。
「コシの強さは正義!コシの弱さは悪!」と、うどんを善悪二元論で判断するようになったわけではない。家ではフニャフニャなうどんを好んで食べている。ただ、讃岐のコシを知って調子に乗っていたのだろう。いつの間にか私の中に「せっかくの外食なのに、やわらかいうどん食べるなんてどうなの?」という気持ちが芽生えていた。
それにコシの強いうどんを好む方が通っぽくてスマートな感じもした。当時は30歳そこそこで、ギリギリ思春期に入ってるお年頃だ。周りからこだわりを持つ男として見られたかったのかもしれない。きっと、そんな誰も気にしてない、どうでもいい事を意識するのが思春期なんだろう。
こうして外食でのうどんは讃岐系ばかり食べるようになったのだが、ある日、江國香織先生のエッセイ、「やわらかなレタス」と「旅ドロップ」を読んでいたら、両方の作品で福岡県博多の「かろのうろん」というお店が取り上げられていて、私の興味を誘った。文豪おススメのうどん、美味しいのだろうか?
自らを「うどん県」と豪語するくらいだ。うどんが有名な県と言えば、やはり香川県になるだろう。しかし、世間へのアピールは控えめだが、福岡もうどんが美味しい地域として、歴戦のうどんの強者たちがひしめいてる激戦区だ。そしてそこは香川とは逆のベクトル、麺のやわらかさを売りにしている。私も現地で何度か食べた事があるのだが、正直強い印象は残ってなかった。ただ、コシにこだわり過ぎていたので、偏った採点をしてしまった可能性は否定できない。
それに、江國先生が「博多に行ったら二度も三度も行く」とか、「いつたべても、何度たべても、見事に完璧な風味と味」だの、ステマかと勘繰ってしまうような、先生に似つかわしくない熱量で煽ってきているのも気になる。こちらが興味津々になってしまうのも無理なかろう。
江國先生ほど偉大な作家をしてそのように執着せしめる「かろのうろん」。ちなみに私は沖縄県の店舗でのみ提供される吉野家の限定メニュー、「タコライス」を食べるためだけに飛行機へ飛び乗るフットワークの軽さを持っている。これはもう、行くしかない。
と言う訳で、行ってきました博多まで。一杯600円程度のうどんを食べに行くために莫大な交通費を使ったのに、食べてみたらお気に召さない悲劇が・・・なんて心配は無用。仮に江國先生の感想が「噓、大袈裟、紛らわしい」のJARO案件だったとしても問題なし。博多にはうどんだけではなく水炊き、もつ鍋、餃子、焼き鳥、天ぷら、豚骨ラーメンと、美味しいものが盛り沢山なので、一食くらいハズレを引いても大丈夫。一度や二度のミスなら簡単に挽回出来る、日本有数のグルメスポットだ。大船に乗った気持ちで突撃しよう。
博多駅に到着後、猫まっしぐらで「かろのうろん」を目指す。徒歩10分程度で到着。古い木造の建物が醸し出す老舗感に俄然期待が高まる。お昼時を少し過ぎていたので並ぶことなく店内へ入り、「とろろこんぶうどん」を注文。提供時間も短く、すぐに食べられました。
さて、ここで江國先生を少しでも疑った読者様がいたのなら言いたい。「とりあえず、先生に謝れ」。さすがは江國大先生。ぶっちゃけ、今まで食べたうどんの中で一番美味しゅうございました。
コシのある麺に慣れ過ぎていたせいだろうか、麺表面のふわふわ感と、適度なコシが物凄く斬新に感じた。メニューには「いなりずし」や「かしわめし」もあったのだが、私個人としてはうどんだけで良いのではと思ってしまう。完璧なうどんなので、他の余分なものは要らない。うどんだけを純粋に楽しみたいと思わせてくれる、完成度の高いうどんだった。
この美味しさを私の乏しい語彙力で、読者の皆様にどう伝えたらいいのだろう?色々と考えてみたのだが、こういうのはどうだろう。
「いつたべても、何度たべても、見事に完璧な風味と味」
完全に江國先生のパクリだが、他に適切な表現を見つけられなかったので許して欲しい。
江國先生御推薦の「かろのうろん」。食べた感想は「満足した」なんて軽いものではなく、「感動した」としか言いようがない。うどんで魂が震えるなんて初めてだ。また行こう。二度も三度も。
そんな、かろのうろんの感動は、私を丸亀製麵の呪縛から解放した。「やっぱりふわふわも好きだな」と再確認出来たのだ。
讃岐のコシを知り、すぐに調子に乗った私だ。今度は博多のふわふわ感を知って調子に乗るのは必然。なので、博多滞在中にもう一軒うどん屋さんに行ってみた。「食べても食べても麺が減らない」という都市伝説が流布される福岡の有名うどんチェーン、「牧のうどん」だ。
何度か食べた事があるのだが、本当に食べても食べてもなかなか麺が減らない魔法のうどんだ。麺が減らない理由には諸説ある。食べてる人が視認出来ないどんぶりの底の方で麺が増えてる「増殖説」と、麺がスープを吸って膨らんでいく「膨張説」だ。
学術的探究心を交え、麺の状態を観察しながら食べ進んでみたのだが、どうやら麺がスープを吸っているようだった。着丼した時は普通のうどんだったのに、ちょっと目を離すとぶっかけうどんみたいにスープが減っていた。牧のうどん童貞の読者様から「スープが減るってことは急いで食べないといけないの?」と危惧する声が聞こえてきそうだが心配ご無用。提供時にスープが入った小さなヤカンを渡されるので、スープが減ったら継ぎ足せるようになっている。
スープをガンガン吸うくらいの麺だから、実にやわらかい。かろのうろんもやわらかい系だったが、牧のうどんはその比ではない。上唇と下唇で嚙み切れるほどふわふわだ。それはさながらマシュマロの食感。小さなくまのデザインでお馴染みのハリボーグミの超弾力とは大違いだ。
かろのうろんはうどん単体で楽しみたいが、牧のうどんは「かしわめし」と一緒に食べると更に破壊力が増す。うどんとご飯。ちょっとした炭水化物祭りなので、体重が気になる方はなるべく避けたい組み合わせかもしれないが、食べる阿呆と我慢する阿呆、同じ阿呆なら食わなきゃ損だ。ダイエットはこの組み合わせを食べ切ってから頑張れば良いじゃない。
牧のうどんもふわふわで実に美味かった。やはり、前回来た時は「麺にコシがないのはどうなの?」と、上から目線でジャッジしてたのだろう。今回は正当な評価が出来た。ジャンクフード喰いとして成長したってやつだな。
こうやって博多のうどんを堪能した私、また一皮剝けてしまった。ズル剥けと言っても過言ではない。
丸亀製麺の功績は計り知れない。だが、その眩いばかりの功績の陰で、うどんに対する視野が狭くなっていたのも確かだ。コシの強い麺とふわふわした麺。丸亀ショック後の私はそれを資本主義と共産主義、アフラマズダとアーリマン、犬派と猫派のように対立する概念、どちらかを選択しなければならないものと思いこんでしまっていた。それは仕事と家庭、どちらが大切か決めつける残念なお父さんに似ている。実に愚かしい考えだ。どちらも大切で、どちらも美味しいのだ。決めつける必要は、無い。
うどんの固さに貴賤はない。それが分かった博多旅行だった。ありがとう、江國先生。
今年ももう残り僅か。美味しいうどんとの出会いもあり、実に良い一年だった。そんな2023年の年表にはこう記載されるだろう。
「江國香織ショック」と。
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