心のこもった

 AIがキリスト教に関する質問に流暢に答えるどころか、礼拝説教まで作ることができるという。もちろん、まだまだ粗い部分もあるだろう。AIによる「信仰的な」文章を、ある牧師がSNSで紹介したところ、「心がない」という感想が寄せられていた。やはり牧師が語る説教には心がこもっているし、信徒が語る信仰の言葉には愛があると。
 
 しかし、もしも「AIが作成した」という事実を伏せて、投稿者が「私の拙文です」と紹介していたら、読者の感想はどうだっただろうか。「拙いなんてとんでもない! 心のこもった信仰があふれていますよ」との反応が返ってきたかもしれない。
 
 吉川浩満の著作に『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(筑摩書房)という、変わったタイトルの本がある。マルクスの言葉からの引用だそうだ。普通なら「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」と言いそうなものである。だが、サルを解剖しようと思いつくためには、人間とサルは共通の祖先を持つとか、共通の臓器があるなど、まず人間自身にまつわる理解があるていどなければならない。だから「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という表現が成立するのである。

 この本で吉川が語っているように、サルをAIに置き換えてみることもできるだろう。AIとは何者なのか。AIへの理解を深めていくということはすなわち、まず我々人間とは何者なのかということへの理解を深めていくことなのである。
 
 「AIには心がない」といった批判は、今後意味をなさなくなっていくのかもしれない。たとえば礼拝説教で「私たちは神のロボットではありません。神から自由な意思を与えられた人間なのです」という譬えが、かつては意味を持ったかもしれない。そこでイメージされるロボットとは、自分では判断できず、人間が意図したとおりにのみ動く、自動人形である。しかしAIは『ブレードランナー2049』で主人公に恋心を寄せている「ようにしか見えない」、ウォレス社製のメイドAIジョイのようになっていくだろう。ジョイが信仰について語り、説教すらする時にこそ、私たちは「人間とは何か」を先鋭化させるのだ。「AIは~することができないが、人間はできる」式に人間性を誇る時代は終わろうとしている。(『キリスト新聞』寄稿記事に加筆)

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