夢・異界・神隠し
この『神隠しと日本人』は三十年ほど前に刊行されたものだが、中で夢について言及されているので、どうも捨て置けないという気がしてならない。だから少し深くまで分け入ってみるとしよう。
著者の小松氏がここでいう「柳田国男に徳田秋声が語ったという、秋声の隣家の青年の異界体験」とは柳田国男の『山の人生』にある次のような話である。
また小松氏が「愛知県北設楽郡本郷町の青年の体験した異界」と言っているのは次のようなものである。
このような神隠し譚にあるようなケース、すなわち失踪者が発見されてもといた民俗社会に戻ってきて、その体験内容を周囲に語るケースを小松氏は神隠しA1型、と分類するわけである。A2型というのは、失踪者が発見されて民俗社会に戻ってきながらも失踪中のことを何も覚えていないようなケースで、さらにB型は、失踪者の家人や村人が総出で当人を捜すが発見に至らないケース、C型の場合は失踪者が遺体で発見されるケースを言う。
小松氏は本書の中で、神隠しの謎解きをしているわけではない。神隠しとは実はただの家出であるとか、誘拐や殺人事件であるとか、あるいは自殺であるとか、個別のケースに当たってそのような「真相」を明らかにしようとしているのではない。著者はここで「神隠し」という、失踪事件に対して民俗社会が用意する「ヴェール」の構造を腑分けし、詳らかにしているのである。
民俗社会は、どのような形であれ、村人の失踪事件があると、神隠しという解読格子で現象を理解し、あたかも「待ちかまえていたように」神隠しという物語のなかに事件を回収してしまう。そして約束事でもあるかのように仔細に至るまで定型の解釈パターンに従って描写がなされ、周囲に、また後世に語り継がれる。著者はこの定型の解釈パターンを「ヴェール」と呼び、それを解剖して、神隠し幻想の本質を垣間見せてくれるのである。
ところで小松氏は、神隠しA1型における当事者の体験談は夢だと言っている。失踪者は一人で、あるいは見知らぬ修験者や木挽と山を歩き回ったり、しばし一緒に過ごしたというだけのことなのかもしれない。しかし、彼らにとってはそこは異界であり、神々に導かれて山中異界を彷徨したのである。あるいは狐に化かされて異界に導かれてしまったのである。それはあたかも、寄り合いから酔っ払ったまま帰途にある村の男が狐に化かされ、家に帰り着き風呂に入ったつもりで、肥溜めに浸かっているようなものであろう。彼らは、ある種の睡眠障害や泥酔状態にある時のように、身体行動を伴った夢を見ていたのか。あるいは失踪中に山中などで眠り込んで天狗や鬼や狐が登場する夢をみたのか。
ここでわたしが言っていることは、民俗社会の側ではなく、神隠しA1型失踪当事者の側における神隠し幻想の問題である。本書では、この失踪当事者の夢としての神隠し幻想について詳細に論考されているとは言えないようだ。そこでここでは民俗社会の側からではなく、夢解き思考の側から神隠し幻想を紐解くことで、本書の内容を捕足してみよう。というのも失踪当事者の夢としての神隠し幻想と民俗社会の側における解読格子としての神隠し幻想の関係は、夢とその解釈の関係に相似しているからである。
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神隠しA1型の失踪当事者の体験談を、小松氏が言うように夢であると仮定してみたとして、それはどのように見られた夢なのか、とまず問うてみる。神隠しにおいて失踪者は身体行動を伴った夢を見ていたのか。それは睡眠時遊行症(夢遊病)のような睡眠障害なのだろうか。
夢は無害な精神病である、とフロイトは言ったが、それは身体行動を伴わないから、であった。夢の中では何事も可能である。社会の規範を侵すようなことも、性的な願望を満たすことも。しかし、そんなことが可能なのは、すべては身体行動を伴わないという条件があってのことである。とすると、身体行動を伴った失踪事件の当事者は何らかの疾患の一種、つまり睡眠障害ということになるのだろうか。
あるいは、彼らは、知らぬ間に山中に彷徨い入って、大木の根元ででも居眠りして、天狗の夢を見ていたのか。しかし、これも山中へ歩いていくという身体行動が伴っているがゆえに、単純な夢見とは言えないようだ。
ここでもう一つ考えられるのは、失踪者は一種の憑依様状態にあった、ということである。失踪者は、今で言う統合失調症の急性症状やシャーマンのトランス状態に類比されるような高揚した律動的時間性のうちで目覚めつつ夢を見ながら異界を彷徨したのである。
上に引用した精神科医の中井久夫氏が素描した発病期の統合失調症患者の内面の様子には、神隠し幻想を考えるうえで多くのことが語られているように思える。例えば「まったく無力で操られっぱなしのようでもあると思う」という記述は、夢見る意識で天狗のような隠し神に強制的に連れ回されていると思い込んでいる神隠し当事者を連想させないだろうか。彼は自分の意思で動いているのだが、自己統覚感の欠如から、自分の行動を何者かに操られている、という作為体験として感ずる。彼等の夢見る意識はそれを天狗によるものと表象しているに違いない。そしてこれと同時に「万能の人間のようでもあり」という箇所は、天狗に連れられて空を飛び回った、という神隠し当事者の体験談を思い起こさざるを得ない。天狗に背負われて当事者たちは周囲の山々の上を飛び回り、聞いたことしかない都市の上空を旋回することもある。彼らの万能感が、夢の中で空を自由に飛び回る体験に類比変換されたのである。
また「夢のなかのようでいて、極度にさめている感じである」という言葉は非常に重要であると思われる。当事者は夢見る意識、すなわち何もかもが兆候として、象徴化して感知されるような夢の意識に侵犯された現実意識の状態にある。身体行動を伴ったまま夢を見ているのである。
さらにここにある「出産直後や重い身体病のときに起こる、精神病状態にもそれは起こる」という記述は、柳田国男の『山の人生』の次のような一節と符合するところがあるのではないだろうか。
因みにここで仮に統合失調症なる現代によく用いられるラベルを使用しているが、現代医学が用意する病名を用いることにはあまり意味はない。ここで重要であるのは、身体行動伴った夢としての憑依様状態をどう理解したらいいか、という点に尽きる。
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神隠しから帰還した当事者たちが、しばらく呆けたようだった、とか、気が疎くなった、とかあるいは、抜け殻のようになった、などというこれは一つの〈神隠しの約束事〉であるが、そんな記述に出会うことがしばしばである。これは統合失調症のいわゆる陰性症状を彷彿とさせないだろうか。
中井久夫氏がここで素描している回復期にある統合失調症患者の陰性症状は、神隠し当事者の帰還後の様子と似ている。彼らは、憑依様状態に陥ったことでエネルギーを使い果たし、帰還後放心状態で過ごさざるを得なかったのではないか。
さてほかにさらに留意しなければならないと思われるのは、子どもが神隠しにあって後に発見された場所が、子どもの足ではとうてい登れないような険しい崖の上であったり、深い谷底であったり、という〈神隠しの約束ごと〉がひとつあるということだ。これは、ある種の憑依様状態における〈火事場の馬鹿力〉が発露したのだと考えれば納得できないことはないだろう。さきの柳田国男の『山の人生』に「若い女が山へ遁げて入ろうとするのを近隣の者が多勢追いかけて、連れて戻ろうと引き留めているうちに、えらい力を出して振り切って、走り込んでしまった」という描写にある「えらい力」が発現したのだとしたら、子どもが崖の上に登ったり、深い谷底まで降りて行ったり、ということも可能でないとは言えない。
このような状況証拠から、神隠し当事者の身体行動を伴った夢は、統合失調症の急性症状やシャーマンのトランス状態に類比されると思われるのである。こう解釈することで、小松氏がいうところの神隠し体験の夢としての本質が理解できると思われる。
ここで言及すべきは、神隠し当事者の自己統覚感覚の欠如ということであろう。神隠しというヴェールを剥がしてみた時、露わになるのは、自己統覚感覚の欠如からくる、現代で言うところの作為体験であり、妄想である。彼らの自己統覚感の欠如はここでは資質の方からきている。それが神隠しというヴェールに包み込まれて、民俗社会に共有される物語になっている。
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ある時、王が夢を見た。その夢では、七頭の太った見栄えのよい牝牛が河を上ってきて草を食べていた。そのあと、とても醜い痩せた牝牛がやはり七頭上ってきて、先の美しい牝牛を食べてしまった。王はいったん目覚めたが、再び寝入ってまた夢を見た。その夢では穀物の一つの茎から七つの形良い穂が出ていた。そのあと今度は萎びた穂がやはり七つ伸びてきて、先の形良い七つの穂を呑み尽くしてしまった。王に呼ばれたヨセフが夢を解いて言うには、その二つは七年の豊年の後に七年の凶年がやってくるという意味の一つの夢であり、重ねてみたのは、神が王に速やかに凶年、飢饉に備えさせようとしたためである…
ヨセフのこの夢解釈によってエジプトは飢饉に対する備えをいち早く講じ、現実になった凶作の年月を持ちこたえることができた…旧約聖書の物語はそう続く。
ここでヨセフは、王の夢を夢告、神から王への忠告であると解釈して王に語って聞かせた。
ところで、そもそも夢とは、前日の外的出来事への内的反応が類比的に構造反復したものである、と大雑把に説明できる。ある出来事に対してふと何かが心を過ぎる。しかし、その時は現実的関心が心を占めていて、その、ふと心を過ぎった何かはすぐに忘れられてしまう。しかし、それは、度々心を過ぎるような何か自分にとって重要なものであった。そんな、何かに潜在する時間構造が、未明の夢として類比的な形象を伴って反復するのである。従って夢の動因となるのは、前日の外的出来事に対する感覚印象や気分や思考に潜在するパターン構造であると言える。
しかし、私たちがこのように夢の発生機序を認識できるようになったのは極最近のことである。徐々に夢は個のもとへ帰還しつつあったとは言え、つい最近まで、この旧約聖書のファラオの夢にあるように夢は夢告であり、神々からのメッセージであり、予言であり、異界からの忠告であった時代が長く続いたのである。
ほんとうは、王はこの夢を見る前に、国の安定と繁栄をひたすら願い、そしてそのための豊作を神に祈願でもしていたのだろう。いや、そもそも祈願ということが王の日常だったのかもしれない。そして、当然景気循環の波ということも考えざるを得なかっただろう。豊作の年もあればそれと同じくらい凶作の年もある。この波が繰り返される中でいかに国を安定させたらよいか、そんなことが王の心を占めていた。このような王の祈願や思考が牝牛と穀物の穂の空間的表現となって夢に構造反復したのである。それは王の感情や思考に属する時間構造の類比的反復であったのだ。
しかし、当時の観念的自己統覚の時代水準においては、夢は自己に所属するものとは認識されることはなかったと言える。それは神という迂回路を通して初めて理解可能なものだったのである。ほんとうは自分の希望や欲望、構想であるはずのものが、神々の託宣に、異界からの忠告や予言に、と疎外されることで認識することができた。それは前日に自分が感じ、考えたことのうちに潜む時間構造の類比的構造反復ではなく、神々や異界の存在者による、逆立ちした未来の類比的構造反復と見なされた。夢は神や異界の存在者が「見させる」神意であるというのが時代の通念であった。
そこから、夢が自己のもとへと帰還するまでいかに長い年月を要したことだろうか。
その変化は少しずつ、観念的自己統覚の時代水準が上昇するにつれて徐々に徐々に、まずは知識層の間から散発的に進んだことだろう。例えば、精神科医の平井孝男氏は、以下のように17世紀頃の中国での例を挙げている。
ここには時代通念から抜きん出た夢のメカニズム理解がある。現在の私たちの理解にとても近いように思える。ここには、夢を「見させる」神や異界の告知者という迂回路は存在していない。自己の願望や希望やあるいは欲望が、神や異界の告知者によるお告げとして疎外されるような機序は想定されていない。
このような「夢から覚めた」夢理解は、観念的自己統覚の時代水準の上昇に伴い、知識層の間から徐々に自覚されていった、と言える。そして19世紀と20世紀の変わり目の時代にフロイトが、本来自己に所属する夢の動因としてのその時間構造のことを〈欲望〉であると特定したことは、決定的に重要なことであった。夢が自己に属するものであることがどこでも一般化したのは、その精神分析理論の貢献による。(とは言え、〈欲望〉は夢の動因である時間構造の一分枝に過ぎないのだが。)
わたしはこのように概括的に言うことで夢の歴史を、神話時代の遺制である〈夢告〉が自己統覚的夢認識に少しずつ置換されていく過程として捉えようとしているのである。無論、現在においても神話時代の遺制としての〈夢告〉という考え方は、夢占いのような形で存続しているし、また古い時代において例外的に、先の中国の知識層の例におけるような、時代通念から抜きん出たような現実的夢認識がかつて存在してきたであろうことは疑いえない。しかし、このようなバラツキがあるとしても、大まかな流れとして、神話時代の遺制としての〈夢告〉は退縮していく過程にあり、同時に自己統覚的な夢認識がそれに代わっていく、という傾向性に変わりない。
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夢とはほんとうは自己に属する感覚印象や気分、願望や思考が類比的に構造反復したものである。構造が形象を吸着して自己反復することで夢は立ち昇る。では、神隠し当事者たちがその身体行動を伴った夢のなかでみた形象群にはどんな構造が吸着、裏張りされていたのか。今度はそう問うてみる。
それは、失踪者の無意識を絶えず吹き抜けている根源的〈異和〉あるいは本質的〈孤独〉でありその解消の衝動である、と言うことができる。これが上の柳田国男の文書の中で言われている「気質」ということの本質をなす。
もちろん、民俗社会の観念的自己統覚意識の時代水準においてはこのような根源的〈異和〉あるいは本質的〈孤独〉は自覚されることはないだろう。それ故にその夢は、民俗社会の通念を素材として選択する、と指摘しなければならない。あるいは一般夢として疎外されると。
ここで先にわたしたちが、古代社会において、夢みたことが神や異界の存在者の夢告として疎外されたことを思いおこしてみる。ほんとうは、自分の願望であったり、希望であったり、構想であるはずのものが、異界の存在者の夢告、忠告へと置換されて理解される、というのが古代の夢の特徴であった。これと構造的に同じことが、日本の民俗社会における神隠し幻想においても起こっていると見なすことができる。ほんとうは、彼は周囲の民俗社会に対する根源的な〈異和〉や絶えず吹き抜けている本質的〈孤独〉に憑かれるようにして民俗社会の外部へと誘われる夢をみたのである。失踪者の激しい衝動が民俗社会の外部を夢見たのである。しかし、失踪当事者は自分自身であるはずの根源的〈異和〉や本質的〈孤独〉をそれとして統覚することはできず、迂回路を通って天狗からの誘いとして、異界の住人によるかどわかしとして夢の形象に投影する。神話時代の遺制が残る民俗社会においては、自己に所属するはずの時間構造は、誰もが同じように見る一般夢として、民俗社会の一般通念へと転置される。民俗社会の側もそれに呼応して、それを異界の者たちのかどわかし、としてラベルを貼り付ける。
ここでは、自己統覚感覚の欠如は時代性のほうから、民俗社会のほうからやってくる。神隠し当事者は、先に言及した資質の方からと、そして社会の方からと、二重に自己統覚感覚の欠如という事態に晒されている。そして、その自己統覚感覚の欠如は、民俗社会の外部へという夢を、神隠しという民俗社会の物語へと代理的に表象させる。
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これまで何となしに頭を離れなかったのは、神隠しの失踪当事者が往々にして子どもである場合が多いということであろう。無意識とは言え、子どもに対して根源的〈異和〉や本質的〈孤独〉とは何事であるか、ということになりそうである。これについては『神隠しと日本人』において小松氏が藤田省三氏の『精神史的考察』から隠れん坊遊びについての文章を引用しながら述べている上の考えを読めば、子どもが根源的な〈孤独〉から無縁であるとは言えないということがわかるはずである。
通常こういった隠れん坊遊びで子どもが経験するであろう〈孤独〉は一瞬のことであるだろう。子どもたちは、仲間たちが次々と鬼に見つけられていくうちに、日常の意識に帰っていく。鬼も約束事に従って隠れた仲間たちを次々と見つけ出していくうちにいつもの意識に帰っていく。家族や社会の時間がいつも通りに流れている日常がそこにある。そして、一瞬感じた〈孤独〉は忘れられてしまう。
だが、何らかの関係の欠損が構造化されているような場合、主に親との関係からやってくる欠損の感覚が身体に刻み込まれているような場合、一瞬で済むはずの〈孤独〉が構造化した〈孤独〉と重なり合い、累乗された時、それは逆らい難い遠心力を持ち、その子を異界へと連れ去ってしまう可能性がある。その時〈孤独〉は本源的なものとなり、それが隠し神となってその子どもの夢見る意識に疎外されるのである。
これとともに次のような柳田国男の回想にも注目してみる。
幼年期の柳田国男は、このような、神隠し事件の寸前と言えるような体験を何度もしているという。
「歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気があって機嫌の悪い子どもであったらしい」という回想からは、弟ができたことで、母親から距離を置かれて、本源的な〈孤独〉とでも言うべき〈異和〉の感覚が、幼年の柳田国男の無意識にうっすらと構造化されていたことがうかがえないだろうか。そして、「小さな絵本をもらって寝ながら看ていたが、頻りに母に向かって神戸には叔母さんはあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往ってみたらもういなかった」という失踪時の状況は、幼い子どもが神隠しにあう場合、直前に、親や近親者との何らかの諍いや行き違いがあったということが多かったのではないか、と類推させる。そして、〈異和〉の解消を求めて、こどもはふらふらと夢見る意識で別の世界へ彷徨い出てしまう。
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言及しておかなければばならないが、神隠しB型にしろ神隠しC型にしろ失踪者が誘拐者や変質者のような犯罪者に連れ去られたような場合のことである。あるいは小松氏も指摘しているような〈間引き〉に該当するような場合である。つまり、失踪当事者に根源的な〈異和〉あるいは本質的〈孤独〉が無意識に構造化されているとは言えないような場合、まったくの犯罪被害者としか考えられないような場合はどう理解したらいいのか。ここでは犯罪被害者つまり失踪者は、無理矢理連れ去られたのであり、根源的な〈異和〉あるいは本質的〈孤独〉の遠心力によって民俗社会から弾き飛ばされたわけではない。従って彼らは夢に憑かれて異界を彷徨したわけではない。ここではわたしたちの夢分析という思考は全面的に神隠しの方程式としては転用できない、ということになる。
これについてはいつかまた別の機会に考察してみたいが、民俗社会の側からはそれら別のケースも神隠しA型の場合、すなわち失踪者が発見された場合と同様、隠し神によるかどわかしとしてヴェールで覆い隠すだろう。民俗社会はどのケースも同じように〈神隠し〉というヴェールで包み込む。
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ここまでわたしたちが考察してきた神隠しという夢は現代都市に舞台を移した時、どのような様相を呈するだろうか。小松氏が言うように、もはや異界という“向こう側”か消失した都市空間においては、冷気に吹き曝されている〈異和〉や〈孤独〉はどのように夢見られるのか。
都市伝説の一つにエイリアン・アブダクションというのがある。主にアメリカでの例が多いようだが、テレビなどでよく特集番組が組まれている。ある時車で夜道を走っていると眩しい光が見え、車を降りるとそのまま意識を失ってしまった、気がつくと宇宙人に囲まれて手術台のようなところに拘束され、身体中を検査されていた、解剖され、何か機械のようなもを体に埋め込まれたらしい…このような宇宙人による拉致幻想は、現代の神隠しとして有力な候補であろう。宇宙人に拉致された被害者は行方不明になったわけではなく、ちゃんとすぐに宇宙人によって現実世界に戻されるらしいのだが、神隠し幻想と本質を同じくしていると思える。民俗社会において異界であったところの「向こう側」の世界は今や異星人の乗り物、すなわちUFOの内部の異空間であり、宇宙であり、「文明の発達した」別の天体てある。天狗だった存在は今やその乗り物で別の天体からやってきた異星人ということになる。
しかしこのような神隠し幻想に代わる物語を見出せない時、深刻な〈異和〉は、先に精神科医の中井久夫氏の記述にあったような精神疾患という新たな現代の物語に回収されるだろう。神隠しにおける「天狗に連れ回された」という体験談は作為体験と見なされるであろうし、天狗が「ついてこい」と言った、と言えば、それは幻覚や幻聴と解釈されるだろう。幻覚や妄想は社会で共有されているならそれは一つの解釈体系となるであろうが、社会に共有されない解釈体系は不可解な妄想や幻覚になりうる。神隠しという物語は民俗社会で共有されていたが故に一つの解釈体系として地位を与えられていたが、現在においてはその神隠し体験は、精神疾患という新しい物語のうちに配置されるだろう。
でなければ人を足元から吹き曝しにしている〈異和〉や〈孤独〉は解離されて凍土に埋葬され死んだふりをし、やがて誰も思い及ばない事件を引き起こすだろう。
ここに村上春樹の『東京奇譚集』という短編集がある。なかに「どこであれそれが見つかりそうな場所で」という奇妙な短編がある。語り手の「私」は、どうも人捜しなどを請け負う探偵であるらしいのだが、それは職業ではなく、ボランディアでやっていることであるらしい。そこへ、「シャープな形をしたヨモギ色のスーツを着」て「アイスピックみたいなヒールの靴を履いた」女性が訪ねてきて、失踪した夫を捜してほしいと依頼するのである。証券会社のメリルリンチに勤めているというその夫が失踪した状況はとても奇妙なものだ。依頼者とその夫が住んでいる品川区のマンションの二階下には夫の義母が住んでいる。かつては住職であった依頼者の義父と一緒に浄土宗の寺に住んでいたのだが、その義父が泥酔した挙句に都電の線路上で寝込んでしまい、そのまま都電に轢かれて死んでしまった。そのあと義母は依頼者夫婦が住むマンションの二階下に住むようになったのである。義母は義父が死んだあと不安神経症のようになり、症状が強くなると依頼者の家に電話をかけてくるのが常であった。そんな時、夫がいれば夫が、夫がいなければ依頼者が義母の部屋に行って義母の面倒をみることになるのだった。
とある雨の日曜日にいつものように義母から電話がかかってきた。その日ゴルフの予定だった夫は雨で中止になったため家にいたので夫が義母の元へ行くことになった。「たぶんそんなに時間はかからないと思うから、朝食の支度をしておいてくれないかな」と言い残して。25分後に夫から依頼者に電話がかかってきた。義母の様子も落ち着いてきたから今から戻る、お腹が空いたよ、と夫は電話で依頼者に言った。しかし、その後、待てど暮らせど夫は戻ってこなかった。義母に電話で訊いてみても、ずっと前に帰った、というばかり。免許証も財布もクレジットカードも持たずに、24階から26階へ登る階段の途中で夫は忽然と消えてしまったのである。もちろん警察に届けたが以来10日過ぎてもなんの音沙汰もない。
語り手の「私」は捜索の依頼を引き受け、失踪現場のマンションの階段に丹念に通うようになるが、しばらくして依頼者から夫が見つかった、と連絡が入る。どうしたわけか、失踪場所から遠く離れた仙台駅の待合所のベンチで寝ているところを保護されたのだという。どうして仙台駅の待合所で寝ていたのか、無一文でどうやってそこまで行ったのか、二十日の間どこで何をしていたのか、何を食べていたのか、夫は何も思い出せないらしい。二十日分の髭が伸びて、体重は10キロばかり減ったが、身体的な異常はなく頭脳も回復してきているが、記憶は消えたまま戻らない、と依頼者は電話で状況を説明する。
もう依頼された仕事をする必要もなくなった「私」は天井の一角にに向かっ
て「胡桃沢さん」と失踪者の名前を声に出して語りかける。
「現実の世界へようこそ戻られました。不安神経症のお母さんと、アイスピックみたいなハイヒールの靴を履いた奥さんと、メリルリンチに囲まれた美しい三角形の世界に」。
語り手の「私」が何者であり、何が目的で探偵のボランティアなどをしているのか、という謎を残しながらこの物語は終わるが、ここではこの短編で語られた失踪事件がまさしく神隠しと呼ぶに相応しいものであるという点に着目したい。この神隠し事件は、小松氏の分類でいうA2型ということになる。すなわち、失踪者が発見されるが、何を訊いても要領を得ず、失踪中のことをよく覚えていない、というパターンを踏むケースである。
この短編の中の夫は、現実世界では、綺麗な知的な妻と暮らし、輝かしい職業に休日のゴルフというこれ以上ない充実ぶりである。しかし、泥酔状態で自殺したとおぼしき父親や不安神経症の母に象徴されているであろう彼の出自に由来する根源的〈異和〉あるいは本質的な〈孤独〉は、そのような暮らしの中で少しずつ逃げ場をなくし、圧力にさらされ、彼の無意識は少しずつ現実から撤退を始めていた、と読める。そしてその日の母からの電話は、何か決定的な衝撃を彼に与えたのである。夢が前日の出来事に対する内的反応の類比的構造反復であるという通り、この母親の一件は彼の〈夢〉の決定的な動因となった。彼の無意識にある寒々とした〈異和〉と〈孤独〉は、母親の部屋から自分たちの住む部屋まで続く階段のどこかで疲労した彼の意識に憑いた。そしてその解消を求めて〈夢〉へと変換した。身体行動を伴った〈夢〉へと。神隠し事件の失踪者が知らぬ間に山中を彷徨い続けるように、彼は身体行動の伴ったその〈夢〉の中で知らぬ土地を彷徨い歩き、いつしか遠く離れた駅の待合所で発見されるまでその〈夢〉は続いたのである。しかし、彼はその〈夢〉を覚えていない。彼に憑いた無意識の〈異和〉や〈孤独〉は、それほど現実的意識から乖離した地下深くに埋葬されていたのであり、決して彼の意識に昇ってはいけない魔であり闇だったのである。従って、自分が見た夢を覚えていない時と同じように、彼は失踪中の〈夢〉にアクセスすることができないでいる。
ここで私が思い描くのは近代文学の原型といってもいいような「彷徨」のイメージである。居場所なく病み疲れた〈孤独〉な文学青年が当てもなく夜々の街灯の下を〈彷徨〉したり、冬の荒海の磯を踏み歩いたり、という古き良き時代の典型的な文学青年の像である。もしもこの夫がこのような文学青年であったなら、無意識の寒々とした〈異和〉や〈孤独〉は、そのような〈彷徨〉によって代理的に解消されたであろう。しかし、夫は華やかな職業生活を送る証券マンであり、無意識を顧みる余裕を持たなかった。本源的〈異和〉あるいは本質的〈孤独〉は意識生活からの解離を余儀なくされ、その日不安神経症の母親の介抱から解放された一瞬に彼にとり憑いた。彼は隠し神の天狗に連れ去られるようにして忽然と失踪し、身体行動を伴った〈夢〉の中で〈彷徨〉するほかなかったのである。
ただ、「隠し神の天狗」は今やただの比喩以上ではない。冷気に吹き曝されている〈異和〉や〈孤独〉をかどわかし、山中異界へと連れ去る神々はここにはもういない。現代人は、夢の動因となった欲望や願望や感情や思考を神々や異界へと疎外したりはできない。それら夢の動因は今や固有な生活史的文脈に属するものであり、異界の存在者に置き換えることはできない。
すなわち今や、彼の無意識に日々吹き荒れている根源的〈異和〉あるいは本質的な〈孤独〉こそが、彼を異界へと連れ去る隠し神であると言わねばならないのである。
参考文献
『神隠しと日本人』小松和彦 角川文庫
『統合失調症をたどる』中井久夫 ラグーナ出版
『聖書』日本聖書協会
『夢の基礎知識』平井孝男 創元社
『精神分析入門(下)』フロイト 高橋義孝・下坂幸三訳 中公文庫
『遠野物語・山の人生』柳田国男 岩波文庫
『東京綺譚集』村上春樹 新潮社
『空虚としての主題』吉本隆明 福武文庫
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