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観劇メモ:星組公演『マノン』

先に書きますが、めちゃくちゃ面白かった!という総評です。が、悲劇的な面白さ、ではなく、喜劇的な面白さ、として受け止めてしまっています。観劇後に合流した友人と「絶叫上映的に、みんなでツッコミながら見たかったねぇ」と話していたくらいには。なので、感想もずっとそんな感じの話をしています。

あと、ネタバレへの配慮はしておりません。



『マノン』、観てきました。

今回公演についてはパンフもあらすじも確認せず、予習ゼロで見ています。もっというと、オペラの『マノン・レスコー』と同原作とわかっておらず、兄の名がレスコーで妹の名がマノンって、そりゃまたプッチーニっぽいね!と思いながら見ていた次第。観劇中にイコールだと思い至らなかった理由は、音楽史の試験用に知識として覚えただけで、作品はまったく知らないからです。新鮮!

たまたま同じ日のマチネを知人が見ていたので、始まる前に「どうでしたー?」とヒアリング。曰く、「まわりが大変に号泣していた」とのこと。なんでも先日、同日に見た『桜嵐記』よりも周辺が激しく泣いていた、と。ご本人はどちらも泣いてはいないものの、一般的にそういう受け止め方の人が多く見られるようだ、というお話。

ほうほう、なるほど?と心の準備(とハンカチの準備)をして着席。てっぺん席から拝見いたしました。

1幕終わり。――― あれ?これ、この後に号泣展開なるの?

あまりにてっぺん席で、傍観者的な感じで見ていたからそう思わなかったのかしら、わたし。などと考えながら、1階前方席で見ていた友人たちと連絡を取り合う幕間。いや、前で見ている友人らも、同じような感想だわ。

というところで、心の準備を切り替える。どうやらわたしにとって、この物語はちょっと喜劇な要素が強いっぽい。そして2幕の幕開け直後に確信。ああ、やっぱりな。

念のため申し上げれば、演者の皆様の熱演があってこそ、彼らがその役として生きているからこそ、彼らを「現代の目線から見た場合」に喜劇性が立ってしまった、ということだと思っています。彼らの生きた時代や社会性を踏まえた上で見たら、マノンもロドリゴもレスコーも彼らなりにその時代の人として生きているように感じられる。けれど、だからこそ現代の日本という社会に生きる大人から見ると「なんでやねん!」という気持ちになる。そういう現代との乖離感が、とても喜劇的に映るなぁ、と。

「宝塚ってこういう作品もあるんだねぇ!」と、歴2年~半年組の我々は感想を述べあっておりました。奥が深い。


以下、完全にネタバレます。

友人とわたしたち、全会一致のお気に入りのセリフは「ロドリゴ、怖いわ……お金がないの」。大好きです。2幕の幕開け、悲劇を思わせるようなひっしと抱き合った姿で出てきた二人の会話の内容、それかい!!と。お家賃の心配ばっかりしているマノンちゃん、マジでかわいい。

彼らが生きる時代、19世紀のスペイン。当時の状況を検証しないことには、背景的なところがあまり予想しきれないのだけれど(19世紀でも前半か後半かで全く異なるだろうし。でも、舞台設定が原作から変わった理由は、主にあのお衣装を着せるためでは?? と勝手に疑っております。ので、そこまで舞台を変えた理由はないのかな、と)、彼らのキャラクターはそういった背景を知らぬまでも、実にわかりやすく演じていらっしゃったように思います。

物語自体はロミジュリ構文。若い男女が出会った瞬間に運命的な恋に落ち、その恋の成就を周囲の声も聞かずに貫こうとし、そして周囲をも巻き込んで悲劇的な最期を迎える、という大筋。

けれど、ロミジュリと根本的に異なる点が、「自業自得」にしか見えない点。ロミジュリは生まれてきた環境が「♪愛するかわりに憎しみが満ちる」であるのに対し、この二人は身分にこそ差はあれど、でもそれだけだ。降りかかる悲劇は、いずれも自分たちの浅慮によるものでしかない。しいて言えば身分差が問題なのだろうけれど、二人の恋を反対された時点で自分たちが正しく努力をすれば、あるいはその恋だけは貫くことができたはずなのだから。特に現代的な目線を持ってみてしまえば。

だからこそ、二人がその時を必死に生きているように見えるからこそ、どこか滑稽に見えてしまった。


ロドリゴ。

これまで自分のおかれている境遇、与えられる愛になにも疑問を覚えたことがないだろう、地方の大都市の青年。愛月さんの持つ大人びた雰囲気から、それなりの年齢の青年である、という予想をしながら見始めたのだけれど、物語が進むにつれ、ああ、これは二十歳前後の若い青年なのだな、と気づかされる。しかも、しっかりした信頼される跡継ぎがいる名家の、生まれた時から次男です!感が凄い。期待されすぎず、義務を背負わされることなく、豊かな環境で緩やかに甘やかされてきた感。

そんな青年が、これまでに会ったことがないタイプの美しい女性・マノンに運命的な出会いを果たしてしまい、ふらふらとレールから外れていく。

名家の次男、という立場であれば、継ぐべき家もない以上、本来はいずれかの家に婿入りするなり、あるいは彼がどうあっても思いつかない「働く」という選択肢に向けての努力をしているべき。そうしなければ食っていけない、ということに思い至らない辺り、もしかして十代とかなのだろうか。才ある、若い(少年をはみ出たくらいの)名家の次男。同世代女子たちにモテるし、家とのつながり的にも欲しがる人も多くて、これまで婿入り先探しとかも積極的にしたことなかったのかもしれないなぁ。

ロドリゴがおままごとのような生活をマドリードで楽しんでいた2週間、「この生活を続けるためにはお金が必要だ」という気づきはありつつも、そのためにすることが実家に金を無心する、という辺り、駆け落ちしたつもりもなかったのかなぁ、としみじみと考える。だってマノンと結婚させてくれ、とか手紙に書いたんだもんな……。その視野の狭さ、生活力のなさ、先の見通せなさが十代っぽい。そうであってくれ(そうじゃないならば、僕は怖い)。

「何でもする!」と力強く言うわりに、結局のところ、彼は自分がしたいことしか選ばない。自分の愛した女が金のために「働く」ことは許せないし、自分が代わってその役を務める、という冗談風の誘いは一顧だにしない。「盗みだってする」と罪に手を染めることは簡単に決意できても、自分を犠牲にした努力はひとつもしない。

あれ、彼のいいところ、見た目と声しかなくない?? え???

という風に、ロドリゴという人物を世間知らず、苦労知らず、そして否定されることのない人生を送ってきたのだなぁ……と思わせる形に作り上げていらした愛月さん、実にお見事だったと思いました。見た目の大人っぽさやポスターイメージから、もっと大人の愛憎劇なのかなと思っていたのよ。だけれど、ロドリゴはロミオと同世代なんだな、という印象を持つに至りました。若さゆえの失敗。

ただ、例え若く世間知らずなのだとしても、導き出される「わたし」の感情は、現代に生きるが故に「働いたら、負けなのですか……?」に尽きてしまう。なぜ働かないのか。なぜなんだ、ロドリゴ。商売など庶民のするものだと思っていたにしても、賭博って、いやいやいやそれはないでしょうよ。大体からして、君らが肩代わりしたレスコーの借金、そもそも賭博が原因だったのだけれど、忘れたの? 手ほどきしてくれる相手がそもそも勝ててないんだぞ、無理だろ。

真面目に、ロドリゴはどう生活設計をしていたのかな、などと舞台を見ながら考えこんでしまう謎の観劇体験でした。毎日賭けで稼いで、それで週に2日はマドリードで芝居を見て、マノンに素敵なドレスを着せて、家令と下女的な人を雇って、広い家に暮らす。え、ギャンブルでどうにかなる金額?それ。とは思うけれど、カードと向き合う姿が格好良かったので、まぁいっか、って気にさせる愛月さんロドリゴ。……そゆこと?

その恋ははじまった途端、破綻するしかない。恋が終わるか、自分たちが終わるか。当事者たちの問題意識が低く、揃って(別の理由で)刹那的であるがため、大きな破綻への道を選んでしまう、という説得力。

結果、結末は二人の死のみならず、レスコーという身近な人物すら道連れにしたし、なんなら両家お取り潰しよな……。罪を償わずして脱獄、キリスト教関連の施設で働く人をその際に殺し、流刑地に送られる女を逃すべく、兵士を射殺して逃走。ダメじゃん。家族に累が及ぶやつじゃん。「弾はなくていい」とはいったけれど、「弾はいれるな」とは言ってないじゃんよ、ロドリゴ。どこからどこまでも自業自得に罪を重ねている。このウッカリものさんめ。

ロミジュリだったら、どうしてたろうなー、などとふと考えた。伝言ゲームが成功し、マントバで二人が暮らしていたら?たぶん礼ロミオもまた、働くことを知らない男な気がする。ただ舞空ジュリエットがめっちゃしっかり金銭管理しそう。あとベンヴォーリオから仕送りもらってそう。連絡ミスさえなければ、そこそこ幸せエンドを想像してしまう。一方ロドリゴは……、どっからやり直すって、確実にマドリードに行かない、以外になさそうな気がしてしまうんだよな……。


一方、マノン。

なんで最初に修道院に送られそうになっていたのだろうか。と考えるに、出会う前に既に彼女の「仕事」は始まっていたのだろう、と推察される。ただし、最初からそれを意識的にやっていた悪女ではなく、ごく幼いころから美しさ故に周囲が気を惹きたくて色々と与え、そうして気づけば享楽的で短絡的、それでいて純粋さを持つ少女になってしまった、という印象でした。生まれながらの悪女ではなく、悪女的存在に知らず作り上げられてしまった少女。

お兄ちゃんが近衛をやってることを考えれば、それなりのおうちの(身分が保証される)お嬢さんなのでしょう。貴族階級ではないにしても。と考えると、ロドリゴ側の家族の説得は大変でも、婿入りエンドというのもありだったんじゃなかろうか。レスコー兄ちゃんは近衛やりながら遊び暮らしてるから、家の信頼など一切なさそう。だし、借金を返すのに妹に無心するくらいには家との距離がありそう。マドリード後の唯一の生き残りエンドは、これなんじゃないかな。

マノンが手元にお金がないからと選ぼうとした「仕事」。身を飾ること、都会に住むこと、楽しく生活を送ること。何一つ捨てずに済む選択肢を彼女はちゃんと知っている、という点において、ロドリゴよりよほど考えているのよね……。家賃の心配とかしてるしなぁ。

マノンが、最後の場面でロドリゴに告げる言葉。奇跡が起きたら真面目に暮らす、みたいな発言。それは彼女個人の生きざまを指すと同時に、いやでも、彼女だけが悪いんじゃないよなぁ、むしろロドリゴとの組み合わせ故の悲劇だよなぁ、としみじみ考えてしまう。

しっかし、なんでまたロドリゴだったんだろうな? ロドリゴがマノンに惚れるのはわかるのだけれど、マノンが選んだ理由が微妙にわからない。やっぱり一目惚れだし、顔なんだろうか。時々子どもみたい、とマノンは言ったけれど、ずいぶんな大人になったわたしから見ると、ロドリゴは最初から最後まで少年だったし。考えられるのは、他の男性が何かを与える代わりに彼女から対価を引き出そうとしたのに対し、ロドリゴはそれをしなかったから、くらい。いやでも、フェルナンドとか、普通にマノンが好きゆえに色々と画策し、色々と贈り物をしていたんだよなぁ。うーん。

まあでも、運命の出会いだから、それ以上でも以下でもないのかもしれないな。


というようなツッコミを、観劇時に脳内で繰り広げておりました。幕間、終演後にお隣の方々が似たような反応をされていて、(場内でのおしゃべりはどうかと思いつつも)やっぱりそう感じるよねぇ……、と思いました。ロドリゴの両親(とマノンの両親)には監督責任があるとしても、可哀想の極致はロドリゴの兄、そしてミゲルよな。特にミゲル。ミゲルに幸あれ……と思いながら二人の死の上に幕が下りていくのを眺めておりました。けど、次の幕開け、ショーの冒頭からミゲルが大変に楽しそうに登場したので、まぁいっか!となりました。ミゲルが元気なら、いいよ!!

やっぱり宝塚のショーは、そこに至るまでのあらゆる負の感情を帳消しにする効果があってよろしいですね。ああ、実によい悲喜劇でした。