問うことのマナー違反_100日後にZINEをつくる、93日目
「話をきいてくれ要請」を受けて、友人の家へ。
みんな不安と心配を抱えて生きている。
別れたいのに別れられないも辛いけど、別れたくないのに別れたいと言われるのも、しんどいことだなあと思う。
しかし、話をきいていると、自分の中に「なんで?」が渦巻く。
「学校で子どもが嘘をつくらしい。こんど先生に最近の様子を聞いてくる」
「なんで嘘ついちゃうんだって?」
「・・・聞いたことないなあ」
なんで?
「子どもが門限を守らなくて」
「どうして守れないんだって?」
「うーん、聞いてない」
なんで聞かないの?
なんで「なんで?」って聞かずにおられるんだろう。
腹の中で相手の思惑をあれこれ想像して、心配したり腹を立てたりすることは尋常じゃないエネルギーを必要とするし、結局それは全て自分の頭の作り出した「相手」でしかない。
もちろん、問えば全てがわかるわけではないし、行動の理由を問われたところで、わたしだってすっきりした答えがでないことの方が多い。
それでも。
「なんで?」のボールを投げてみるところからはじめないと、何にもはじまらないのに。
なんで理由をきかないの?
なんで話し合いをしないの?
というボールを、
「相手のために」投げることは、単なるわたしの独りよがりであった。
「相手の正解」をわたしが知っていると思い込めることの傲慢さ。
そんな無遠慮な振る舞いをする権利は誰にもない。
「なんで?」というボールを投げることは、本当にコミュニケーションにとって必要不可欠なんだろうか。
今までわたしは声高に「どうしてわからないことを放置して、見過ごすの?」「なんで自分の疑問を無視して、その場をやり過ごすことを優先するの?」を叫んできた。主に子どもたちに向けて。
その時わたしは、「相手のために問いを投げつけまくることができる自分」に気持ちよくなっていただけであった。ろくな人間ではない。
今でも、自分の投げるものが『相手にとっての薬になる』と確信してしまう自分が顔を出す。
そのたびに「この高慢ちきめ!!」とハリセンで叩いていくしかない。
キャッチボールを望んでいない相手にボールを投げることは、コミュニケーションではなく、マナー違反だ。
わたしに出来ること。
相手の許可なく相手に問わない。
「なんで?」は相手に投げずに、自分で抱える。
「なんで聞かないの?」を「なんで聞かないんだろう」に、ぐにっと変形させる。
「あなたに問いたい」ことは「わたしの問い」だと自覚すること。
「相手に問わせようとする」行為は、二人羽織で後ろから食べさせるのと同じくらい乱暴なことだ。
これに気づいていなかった昨年の自分を思い出すと、来年の自分が現在の自分に向けてる眼差しを想像して「愚かな人間ですみません」という気持ちで腹がいっぱい。
言葉の力は大きい。
言葉でしか伝わらないことがある。
言葉では伝わらないこともある。
好奇心はわたしを駆動させる大事なバッテリーだけれど、相手の服を好奇心の赴くままに脱がせたら暴力だ。
「なんで?」の力を過信して、相手の顔面にぐりぐりマイクを押しつけるパパラッチにはならない。
今年は、ひとりオープンダイアローグが上手になりたい。
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