連続投稿という苦行_100日後にZINEをつくる、89日目
知り合いの書いているブログを教えてもらい、読み始めたらついつい全部読んでしまう。それは確かにブログタイトルにある通り、記録であり日誌であった。その日にしたこと、読んだもの観たもの参加したもの喋った人、毎日の行動が淡々と綴られているだけなのに、その人の生活をのぞき見している気分になってどきどきする。
そもそも自分も当初はZINEをつくるまでの「記録」をつけていこうと考えていたのに。わたしも毎日の作業や行動をありのままに残していけばよかったのだ。と89日目にして思い至る。そうすれば毎日これほどまでに苦行プレイをせずに済んだのではないか。
なんで毎日のどに指突っ込んでげろげろしているんだ。
先日、ゲームのシナリオ製作についての話を聞いた。ゲームと物語の大きな違いは、主人公をいかに空白にするか。プレイヤーを主人公に没入させるために、主人公の感情は極力排除する必要がある。
今日読んだブログは、まさにこんな感じ。わたしが彼になって、毎日のタスクをこなし、生活をし、翌日のタスクを確認する。まるで彼の日々を体験しているような気分になった。
日誌の中に意見や感想はあっても、感情や葛藤はない。
ではわたしが毎日吐き出しているこの葛藤の群れは何と呼んだらいいんだろう。
そうか、わたしのこの100日間は日記なのか。
日記はストレスの解消に役立つのか。
大嫌いな人混みの中に出かけた今日はもうくたくた。帰りに食料品の買い出し、帰宅直後から調理、買い出しの仕分け、片付けを背中を通り越して痛くなった腰をさすりながらこなす。疲れた、と言うと夫に「楽しかったんでしょ?」と言われ、「子どもは楽しんだ」と言うと「子どもが楽しかったなら、楽しかったってことじゃん」と言われ、非常にもやもやする。家族内で母の「疲れた」はなんで抹殺されるんだろう。750g茹でたパスタは夫と子どもに食べ尽くされ、空っぽの鍋と共に「美味しかった〜ちょっと足りないけど」と返される。この家で母は仙人のように霞でも食べて生きてると思われているのか。食べ合わせなど関係なく、悪くなりそうなものから食べる残飯処理係をしている母は意外と多いはず。ノンストップでの台所仕事を終えて21時半。汚いリビング、だらだらくつろぐ子ども、2階から響く夫のいびき、洗濯かごから溢れる洗濯物。腰が痛い。息子の歯を磨く。掃除機をかける。次女の上着のポケットからお菓子のゴミと使い終えたマスクがたくさん出てきて、怒る。「靴箱の扉は開けたら閉めて!」「冷蔵庫から出したお茶はしまって!」「使ったコップを置きっぱなしにしないで!」子どもたちの部屋を怒りながら消灯。洗濯機をまわして入浴する。湯船につかる。涙がでる。涙がいっぱいでる。
怒りと悲しみの群れを文字にしてnoteに放牧させると、うん、確かに心は軽くなる。
よく考えたら「苦行」はnoteではなく、日々の生活であった。
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