人と人とでしか出来ないことをしようよ『美しい彼』感想
「高嶺の花を追う恋愛しか出来ないくせに案外モテる男・平良」×「高嶺の花でいたい訳じゃねえし神様なんかじゃねえよ死ね!!ガチギレ男・清居」という傑作恋愛ドラマ『美しい彼』がこの秋、昨年の放送から1周年を迎えました。
全6話だからインド映画より短いし、せっかくだし真面目に見返すか…なんて軽いノリで円盤をFUNAIにセット。見返すのはリアタイ以来でした。
結果、初見の如く映像・脚本技法に圧倒された上、最終回ではべそべそに泣いたので思いの丈を綴ろうと思います。
スピーディーかつスムーズな1話の導入
冒頭、水彩画のようなアニメーションと平良のモノローグから始まる今作。
ここで平良の思想、10代後半に至るまでの経緯、家庭環境の情報が一気に披露されます。が、訥々と萩原くん(平良を演じた俳優、トップコート所属)の声で再生されるモノローグのおかげで押し付けがましくなく、「ああこういう人なのね」とストレスなく受け入れられる。アニメーションのコンテもいい。クルクルと形を変える三角ピラミッド、幼い平良の辿った底辺の経験、「その経験はそれはそれとして、こいつ恋愛相手にすんの面倒くさそうだな〜」と思わせる人柄がもう伝わってくるんだから面白い(褒めてる)
数十秒の後、自室で眠る平良の実写映像に切り替わり、さあお話が始まるぞ、と視聴者を正します。
たった6話、されど6話。視聴者について来てもらうには、まず主人公を魅力的に描かねばならない…そんな課題を春の小川の如くさらりと、でもどこか淀んだ砂や泥が水底にあるような影を落とす冒頭、見事でした。思わずフォロワーと「なんてスムーズな導入…」と感嘆いたしました。
肝心の、平良の運命の相手となる清居初登場シーンの気合いの入れようは、もう色んな人が言及してるので詳細は省きますが、八木さん(清居を演じた人、LDH所属)が演じたことで若干優しそうな清居になったよね可愛い。原作の清居はあの取り巻きの坊主頭撫でたりしねえもん絶対。初見の時に「何やってんの何その撫で方!?!?」とびっくらこいた思い出が蘇りました。
先ほどチラッと述べた平良のモノローグ、全編を通して出ていますが(のちに清居もするし)きちんと「モノローグありき」の作品になってないのが偉いですよね。モノローグやナレーションってめちゃ便利だけど、いいとこどりになる危険性だってあるじゃないですか。登場人物の心情が誤解なしに的確に伝わるし、画面と視聴者のいる空間を繋げる糸のような役割もある。視聴者は作業しながらでも耳さえ傾ければ見れてしまう。
けれど、多くの視聴者がそうならなかった(であろうと思っている)のは、視覚的な心理描写に抜かりがなかったからでしょうね。これは1話からずっといいバランスで続けているなと感じました、ポイント30000000加点です。
心地よい緩急の付け方
もうはなから「平良と清居いう男たちが恋愛ですったもんだする」という大前提で始まるので、視聴者としてはその「すったもんだ」を大いに楽しみたい。
二人に発生するイベント…例えば1話なら、穏やかに始まった冒頭からの運命的な教室での出会い、しかし清居に「きもい」と一蹴される平良。ここで一度、清居と平良の間に大きな溝(つっても平良が一方的にそうなってるだけですが)が確認されます。
からの掃除当番がなんと二人一緒に!!理科室で手に“名前を電話番号を直書きされ”パシられる=自分の体に想い人が刻まれるというビッグイベントが発生!!!ってな感じで、あの、こうね、お話がうまい。
もちろん、原作がその匙加減抜群なので当たり前やんって話かもしれませんが、やっぱり小説と映像って感じるテンポ感も何もかも違う訳ですよ。小説は読者それぞれのペースで進められるし。小説をそのまんま映像化すると話がだれてしまう箇所もあれば、かといって省くと伝わらない箇所もある。さらに「盛り上げるべきところ」を誤れば、原作の持つ美しい型を壊すことになる。映像制作って本当に大変ね…『美しい彼』は脚本が的確に心理・場所・時間処理をしてくれた良い作品なのだわ。ありがとう坪田文さん…今度ちゃんとプリマジ観ます。
てかこれは原作にも言えることなんですけど、手掴まれて直接“想い人の名前を体に刻まれる行為”の破壊力すごくないですか?これ、清居が「人にそう簡単に心許さない人」だからころ破壊力が数段レベルアップしてるのだと思うんですが、気のせいですか??平良みたいなオタク気質の人間に安易にしちゃいかん、一生の呪いであり祝福と捉えてしまうので…この時点で詰んでるよ清居…
近づいたり離れたり…人物が動く楽しさ
後半、小山と清居の予定をブッキングさせた平良を見ては「ああああん?おい早く清居を追いかけろよ落ち込んでじゃないよ何なのいい加減にしろよ私が愛車ミライースで追いかけてやろうか???無理だよねごめん…」と喚き、公園で酔っ払って話しかけてくる清居を見ては「あなたまたそんな目して〜!!目が、目がもう好きって言ってるよいい加減にしなさいよでもそうだよね電話番号消された相手にどう関わればいいか分かんないよね泣泣泣」と親戚のおばちゃんと化し、原作既読済なのにドラマの手のひらで踊り狂う様は我ながら圧巻でしたね。
それもこれも、登場人物が脚本の奴隷とならず、“人物が意思を持って動いている”からこそだったと思います。平良ならこう考えるだろう、清居はこう動くだろうと“場面というリトマス紙”に当てた時の人物の反応、動きがしっくりくる原作をよく守ってくれたな、と。そしてちゃんと、視聴者をヤキモキさせるエンターテイメントへ昇華させて凄いよねえ…
八木さん萩原さんが撮影前に、酒井監督から参考にと伝えられて鑑賞した『ブロークバック・マウンテン』その話を聞いた時、ああそういうことがやりたかったのかと腑に落ちました。今よりもマイノリティが迫害され、暴力にさらされる1960年代のアメリカ。20年以上にも渡って付かず離れずの関係を持つカウボーイ二人のお話です。愛も憎しみもすべて向く先はあなただけ、という二人なのに一緒にならない(なれないとも言えますが、あえてこの言い方をします)。よくゲイ映画とBLを一緒にするなと話す人がいますが、誰かを強く愛してしまったのに側に行けないしんどさは、ゲイだろうがBLだろうが少女漫画だろうが少年漫画だろうが朝ドラだろうが月9だろうが深夜枠だろうが、共通するものではないでしょうか。
この映画を初めて見た当時の私は(言うて八木さんと歳は同じなのだが)まだ高校生でお子様だったので「なんでゲイ映画って悲しい結末多いんだろ…」としか受け止められず、戸惑ったものでした。八木さんの「昔は好きな人に想いを伝えるだけで殺される時代があったなんて」という感想、めっちゃ好きです。「男同士で」とかじゃなくて、「好きな人に」と言ってくれるその心、まじで一生大事にしてくれ…。
もう一度『ブロークバック・マウンテン』ちゃんと観てみようかな。
撮る・撮られるという関係
原作を読んだときに感動したのは、受け・攻めという概念をカメラを使い表現したこと。基本的に、一方的に相手をレンズに収めて撮る行為は、ある種の暴力を孕んでいます。世界で自分ただ一人だけが、その人の瞬間を捉える=刹那的とは言え自分のものにするというんですから。
面白いのは、自分を卑下し謙遜する平良が“撮る側”であること。途中、清居がボトル飲む横顔を勝手に撮るとこなんか、そら清居キレるわな。でも清居は自ら望んでレンズに収まることを選び、その時間を楽しむようになる。完全に自分を許しちゃってる。この変化たまんね〜!!!!!!!!
話はずれますが、1話のラストの写真印刷でシコシコ表現するの、誇張なしにあまりにも芸術点高すぎて5000000加点です。
場所と人物の関係を重要視する
どの映画、ドラマにも登場人物が拠り所にしたり、思い出の場所にしたり、或いはトラウマになったり…なんて「場所」が存在しますが、『美しい彼』も例に漏れず多くの場所が登場します。学校の中でも教室、音楽室、理科室、校舎裏(今時校舎裏て!)二人で帰った河原、砂利道、平良の自宅、庭、縁側、神社の敷地内…その時その時の、登場人物に相応しい適切な場所があてがわれている。
最終回の理科室での出来事を「なんで学校でするのよ」と怒っている人も見かけましたが、いやそうだよね学校はセッするところじゃあないからね。じゃあ、あそこで一度家帰って準備してさあしましょうってなると、いや現実問題その方が正しいんだけど、めっちゃ話の勢いだれるじゃないですか。てか教室の個人机でないだけ良心的だね。
なんのために6話かけて、いや20歳超えても付かず離れずの二人の関係性を描いてきたかっつー話ですよ。私たちにとってたった6週間の出来事でも、画面の彼等にとっては年単位。やっと灯せた火を、みすみす絶やすわけにはいかぬのだ。あと若いからほら、欲がね。一回火ついたらもうね。実際、平良手出すのスピーディーだったからね。
それに理科室は、“名前を体に刻まれた祝福でもあり呪いの場所”ですから、そらもう理科室でやるっきゃないじゃん。そのぐらいの倫理観アウトは許してよ、LDH製の他ドラマや舞台の方が倫理死んでるからそっちに怒ってくんね?
私がリスペクトしている映画に『マッドマックス・怒りのデスロード』という作品があるのですが(急に何)、ある登場人物が生まれ故郷を目指して独裁者の砦から脱走するんですね。一昼夜をかけて激しいカーチェイスを繰り広げ故郷に戻るも、なんだかんだあって砦に戻ることになる。
冷静に考えると生まれ故郷と砦、めっちゃ近くね?って思う話なんですよ。一昼夜でたどり着いちゃうんだから。東京と山形ぐらいかもしれない。でも、その雑さをものともしない、見ている間は気にならないスッゲーーー面白い脚本なんです。
『美しい彼』の理科室も、学校であることをこちらが気にならないぐらいの説得力と引力がある場面だと思うのよ。
最終回で平良が「清居は神様みたいな存在で…」で言うじゃないですか。そんで清居は「俺は、神様なんかじゃねえよ」と答える。そう、平良と同じ人間。じゃあ人と人でしか出来ないことをしようよ、今まで耐えてきた分の愛を、体を重ねようよって。だって人だもの。そんな製作陣の優しさを感じるいい最終回でした。
1周年に寄せて
八木さんfとして見ていた『美しい彼』。
“推しが出ているから”ではなく、登場人物に誠実であろうとする脚本・映像作品として本当に好きです。私は二次三次かかわらず、推しやキャラクターを神格化する行為は横暴かつ無責任だと思っているのですが、平良はそれを乗り越えて清居を抱きしめることができた。原作2巻3巻では、更にそこが深掘りされるので劇場版が楽しみですわい。
公開日も発表され、めでたい限り。信頼している製作陣だからこそ劇場版、評価はまずは観てからだと思っています。
これ書いている途中に、何を血迷ったかデスゲーム映画(厳密にはデスゲームではないが)を見に行ってなんとも言えない気分で帰ってきたせいで、まとめの尻切れトンボ感が半端ないですが愛は込めました。皆様も半端な覚悟で安易にデスゲーム映画を見るのは避けましょう。劇場版、楽しみ!