2024/7/1 正しさよりも明るい場所選びながら走れば良いんだね
なんの区切りの日でもないが今日から文章を書こうと思う。
なんもない日もなんか書けるように敢えて「日記」と明言せず始める。
続けられるといいなと他人事のように思う。
私は超ナルシストなので自分が書いた文章とか創作したものを延々で見返す。今回の日記も続けば未来の私が読み返すだろうが、その時三日坊主だと未来の私が悲しむだろう。
一年後の私を悲しませるなよ、3日後の私。
最近はボイスロイドに読ませる用のポエムをちょこちょこ作っている。
中国うさぎの声優さん(桃河りか)の声がめちゃめちゃ好きなので、その声を使って何か読ませたいなと考えてポエトリーに狙いを定めた。
作詞という作業に向き合ったことが全く無いというわけでは無いけれど、今までの作詞は毎回カチッとしたテーマに肉付けしていくような作業だったから全然迷うことはなかった(もちろんもっとこうしたいとか悩むことはあったが)。
ポエトリーのポエムというともっとふわっとした、解釈が何種類も存在できる余地を残した言葉群という印象があり、実際そういうポエムが好きなのだが自分がそれを目指して向き合うと正誤の判断がすごく難しい。
今これ良くなってるか?おい!これ良いか?
全然最近じゃないが良い詩でパッと思い浮かぶのが先日アルバムも出たボカロPである いよわ の初音ミクへ(ひいてはボーカロイド全体へ)のラブレターのような曲「一千光年」である。
特に「その髪に光を編んでいたい」はそこに初音ミクからの連想される具体的な言葉はないのにも関わらず、初音ミクへの愛の言葉としてこれ以上ない正しさを感じる。
良い詩は理屈を突っ切って感覚で正しいと思わせるような一種の暴力があると思う。
Kalafinaの『君の銀の庭』の「正しさよりも明るい場所選びながら走れば良いんだね」を聴いた時の閃き。
初日からなんだが文章の締め方が全く思いつかないので今書いてるポエムの欠片を記して終わろうと思う。