安部公房『砂の女』
不快な現実から逃げ出したい。
しかし逃げ出すのは容易ではない。
そうこうしている内に、逃げ出した先の未来がどれほど魅力的なのか分からなくなる。
この小説は80年前に書かれたものだ。
ある30代の男性が1人で旅に出かけ、その先で失踪してしまう。
海が近い砂の街を訪れ、そこの住人に捕らえられる。
蟻地獄のような穴に放り込まれ、その穴に立っている一軒の家で生活をすることになる。
そこには元々1人の女が住んでいる。
ここでの生活が、不快極まりない。
まず、体の感覚として不快だ。
濡れた砂が常に体にまとわりつく。
重かったり、暑かったり、痛くなったり痒くなったりする。
そしてそこでは、常に砂が舞い込んでくるため、砂かきを延々しなければならない。
食料や水は時々他の住人たちが運んできて、穴の底に下ろしてくれる。
さっさとそんな家を手放して楽な暮らしをすればいいのに、そうしない。
無意味に思える作業をどんな天候の日でも続けないといけないのだ。
また、家に住む女を始め、街の住民たちとは話しが通じない。
こちらの常識がまるで通じないのだ。
黙って従うしかないのだ。
こんな環境に陥った時、人はどう対応するだろうか。
一つの理性的な答えとしては、いち早く環境に順応し、少しでも快適に過ごせるように不快な現実を変えていくことだ。
砂かきに精を出し、満足感を覚え、身体的な不快感を軽減していく。
穴の外に出ることを諦め、余計なことは考えず、住民たちと心を通わす。
しかし男は、あらゆる手段を使って、それはとても苦し紛れにも思える手段を取ることもあるが、脱出を試みる。
一度は穴の外に出ることができたこともある。
だが、それすらも見越され、再び捕まり、穴の中へと戻される。
しばらくは大人しくするが、男は最後まで諦めない。
不思議なのは、そもそも男が旅に出たのは、日常の現実が嫌で、一時そこから逃れるために旅に出たことなのだ。
それを失うと思った途端、必死に現実に戻ろうとする。
いや、現実に戻ろうとしたのではないかもしれない。
彼は、選択肢が欲しかったのだ。
砂の女は言う。
「表に行ってみたって、べつにすることもないし…」。
それも事実なのだ。
表に出たって、思い通りにならないこともあるし、ただただやらなければならないことに忙殺されることもある。
余談だが、時々ぽっと出の成功者が、結局吉野家の牛丼が一番うまい、なんで文句を言うんだと宣ったりする。
うるせえ。
吉野家の牛丼はうまい。
金持ちだろうが貧乏人だろうが、食べればいい。
しかし貧乏人が吉野家の牛丼を食べながら文句を言っているのは、他のものを食べるという選択肢がないからなのだ。
味のことを言っているのではない。
選択肢なのだ。
小説の男は、あるきっかけで外に出る自由を得る。
しかし、しばらく穴の底に留まることにする。
それは、自分が外に出る選択肢を得たことを、誰かに、できれば事情をよく知っている誰かに自慢したいからなのだ。
選択肢を獲得するために、ただひたすら格闘していく。
それが砂の中を生きる、または流れていく時間を生きていく術だと思う。