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2-02「真似と真似事」

7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
前回は藤本一郎【「座敷童の印」についての、覚書】です。今回は、Ren Hommaの【「真似」と「真似事」】です。それではお楽しみください!


【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e
【前回までの杣道】

1-07「親子のつながり」
https://note.com/megata/n/nde6df928c96f?magazine_key=me545d5dc684e

2-01「座敷童の印」についての、覚書
https://note.com/b_a_c_o_n/n/n625d32d6bc77?magazine_key=me545d5dc684e

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言葉とは不思議なもので、たった一語加えられただけで意味が大きく変容することがある。「真似」と「真似事」という二語を並べて比較した時、ふとそんな考えが頭をよぎった。

「真似」を通して人は様々なことを学習し、技能を習得していく。例えば、言語獲得の道筋の一つとして人は真似をする。特に子供に顕著な傾向が現れやすいが、聞いたことのなかった印象的な語を繰り返し真似することで、次第に自然と会話の中で使われる「獲得された語」となる。

また、芸術においても過去の作品を模倣することで技術を習得していくことが古くから行われている。美術における模写は他者の作品を忠実に再現することで作者の意図を体感・理解するのを助けると同時に正確に再現するための知識や技術も求められるため、一つの作品の模写を通して多くの学びを得ることができるだろう。

このように模倣することを通して多くのことを学んでいく人間にとって「真似」は根源的な活動の一つのように思われる。しかし真似事、「事」という一文字が付加されると意味合いは一変し、より否定的な意味において真似を示唆する言葉へと生まれ変わる。辞書で真似事を引くと「本格的でなく、物まね程度に行う物事」や「本格的なものではなく、形だけを整えたものであること。本物には及ばない程度のものであること」などと記載されている。この記述を見れば明らかなように、真似事という語は侮蔑的な意味がより強調された形で使われることが多い。

一例を挙げると、検索エンジンで「真似事」と検索をかけると数ページ目には口コミグルメサイトなどの「所詮は真似事」や「有名店の真似事」といったレビューがヒットする。口コミサイトで真似事という語が使われる場合、大方が「所詮は素人の真似事で有名店には遠く及ばない」の意を孕んだ言葉として用いられている。有名店という特権的性質を孕んだ存在を比較対象にすることで、味やコストパフォーマンス、接客態度などを皮切りに貶めるというのが常套手段のようだ。

ここで注目したいのはレビュアー自身もいささか特権的めいた言葉遣い、ないしは文体になりがちな点だ。真似事という言葉の利用者は有名店の価値を知っているからこそ素人の真似事だというような論調を繰り返しまるで自分たちが有名ブランドを着こなせるようなそぶりを見せているが、有名店の本質を正しくできないまま有名ブランドに依拠ないしは寄生することで自分たちに特権性を与えようとする危険性が孕んでいる。

本来、技術の習得や学習としての意味合いを持つ真似に「事」の一語が加わることでなぜ特権的めいた何かが付随されるのだろうか。そんなことを考えているうちに、ふと子供の頃を思い出した。

小学生の時、なぜか習い事という言葉がとても苦手だった。習い事をしてると聞くと、習い事をしてる自分たちは他の人と違うとなぜだか線引きのようなものをされている感覚を覚えたのだ。自分か習い事という言葉を使うと周りの子たちも自分と同じような気持ちになるのではと不安に思い、サッカースクールに通うことを徹底して「サッカーしに行ってる」と言い換えていた記憶がこの文章を書きながら湧き上がったことに今猛烈に驚いている。この習い事という言葉に対する奇妙な嫌悪感がその後僕自身が独学で楽器を学んでいくことの布石のようなものだったのかもしれない。

「真似」、「習う」、互いに学習や技術の習得にまつわる語に「事」が付随することによって特権性を孕んだ語へ変貌していく有様は単なる偶然なのだろうか。

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次週は新年1/3(日)更新予定。担当者はS.Sugiuraさんです。お楽しみに!

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