HF豪華版パンフ特典CD「インタビュー 未推敲 掲載予定無し」感想
※こちらは2019/1/16 にふせったーで投稿した、HFの豪華版パンフレット特典CDの「インタビュー 未推敲 掲載予定無し」を聞いた際の感想メモを、自分用にまとめたものです。
豪華版パンフ特典、ドラマCDを聞いたうえでの、間桐慎二についての雑感。もし桜のあの時の台詞が「ごめんなさい」ではなく「助けて」であったなら。
HFの間桐慎二はこのドラマCDを聞かないと完結しない。
ここ数日HFを消化しきれずにいたのですが、ついに聞きましたドラマCD。
間桐慎二の元へとやってくる「見知らぬ誰か」。
話を聞きたいという「見知らぬ誰か」に対して揚々と喋る彼の声を聞いていた時、私はやっと『間桐慎二』という人物に会った気がした。
間桐慎二は、衛宮士郎や間桐桜、遠坂凛に相対した時に歪み、捻じれてしまう。ここまで来てしまった以上これはもうどうしようもなく、彼らの前ではそうでなければ間桐慎二は間桐慎二でいられない。肥大した自尊心と劣等感に飲み込まれ周囲を傷つける哀れな道化。慎二がしたことは到底許されることではないし屑であることは擁護しようもないけれど、それだけではないことを「見知らぬ誰か」=衛宮士郎や桜・凜ではない=フラットな状態で慎二が話せる相手というフィルターを通すことで、初めて知ることができる。
本来の間桐慎二がどういう人物だったのか。
魔術の家に生まれたことを誇りに思い、特別であるという自負を持ち、だから努力を惜しまない。例え魔術回路がなくともできることがあるはずだと実験を繰り返す。文武両道で人当たりもよく、嫌味な部分もあるが周囲からも頼られる。初期に衛宮士郎が語った慎二評はあながち嘘ではなかった。(ずっと衛宮士郎が異常であるが故に甘々評価してると思ってたごめん)
衛宮士郎の弁当が手作りだと聞いて、料理も試してみて、それも魔術に役立ったかなと言う慎二。
慎二は、衛宮士郎が友人であることを否定する。だってそもそも衛宮に友人を持つって概念がないのさ、しょうがないから俺が構ってあげてるんだ、と。群れている奴らよりは信用できるように思えたと。衛宮士郎の独立性について、「だから、魔術師であると聞いて納得した」と、言う慎二の声に滲み出る感情。1章の桜の台詞を思い出す。ねえ慎二、やっぱり君は衛宮士郎が、嫌いで好きなんだろう。君たちは確かに友達だったんだろう。
衝撃だったのはこの桜への台詞。
「できないところがあるからって、そのままにするなよ。本当に分からなかったら教えてやるからさ」
あの慎二が、どこか優しさすら感じさせる声で言うのだ。まるで兄であるかのように。あああああああ(感情の崩壊)
なんだよ、お前。今更そんな、まるで兄妹みたいな。
HF2章における最後の場面、桜は「兄さんなんていなければいいのに」という感情に至り、その結果あの事件が起こる。原作のテキストを読み直して気になっていたのは、桜が『初めて』そう思ってしまったという記述。いや、だって普通に考えてさ、日常的に暴力やら性的暴行やらをされている時点で、もっと早い段階でこのクソ野郎早く頼むから死ねくらい思いそうなもんじゃん??私は思う。そうならなかったのは桜の内向的な性格と幼少期からの仕打ちによる無力感・諦念からだと考えていたんだけど、今回のドラマCDを聞いて、それに加えて慎二が桜にとって「兄」であったことも要因の一つなのかなと。
間桐慎二の桜に対する感情は複雑骨折しているけど、桜が間桐慎二に抱いている感情も単純化できるものではないんですよ。だって桜、なんだかんだで慎二のこと嫌いじゃないじゃん。いや、嫌いなんだろうけど、それだけでは済まされない憐憫とか親愛とか、そういったものも向けられているじゃないですか。そうじゃなきゃ、1章での桜のあの慎二評は出てこないんですよ。奪うものと奪われるもの、加害者と被害者、その境界が曖昧な似た者同士の同族嫌悪。でも歪ながらも確かに彼らは兄妹だった。
もっと間桐慎二が生まれながらの屑ならよかった。もっと不真面目で、だらしのない人間であればよかった。嫌味を言いながらも妹の面倒を見てあげるような人間でなければ、多分こんなに苦しまなかった。
なあ、慎二。あり得ないIFだけどもし三年前にさ、あそこで桜が言ったのが「ごめんなさい」ではなくて「助けて」だったなら。
君はもしかして、兄として間桐桜を助けたんじゃないのか。
間桐慎二は、このままずっと暗いところにいるのか。すべては自業自得でそんな権利は今更彼にないと分かっていても、それでも誰か、彼に灯かりをと思ってしまう。
このドラマCDを聞いたときに内容に打ちのめされたと同時に、よくこんな企画を思いついたなと膝を打つ気分でした。
というのもこのドラマCD、慎二の元に彼の話を聞きたいという「見知らぬ誰か」さんがやってきて、その「見知らぬ誰か」に向けて慎二があれこれと一人で話し続けるという内容なんですけど、その構造が上手い。
皆さんご存知の通り間桐慎二ってHFの段階では、もう取り返しのつかないくらい歪み切っちゃってるじゃないですか。執着心自尊心劣等感といった感情で追い詰められていて完全にキャパオーバーしてしまっている。一番欲しかったものが手に入らなくて、特別なのは妹のほうで、誰も自分のことを見てくれなくて、ひとりだけ蚊帳の外。だって、君は主人公じゃない。ただの道化なんだから。そう世界から追い詰められ続けている状態だと思うんですよ本人からすれば。どんな理由があれ彼がしたことは許されないけど。
だからこそ、その感情の矛先である衛宮士郎や間桐桜の前では特に感情が揺さぶられる。攻撃をして気を引かずにはいられない。だってそうしなければ、見てすらもらえない。間桐慎二は間桐慎二でいることができない。慎二は強く衛宮士郎と間桐桜に執着している。あと遠坂凛にも。
ところで原作のテキストって、当然ながら主人公の衛宮士郎視点じゃないですか。あとHFにおいては、例の慎二が最後のスイッチを押すシーンなどは桜視点。それ故に我々が知ることができる間桐慎二って、基本的に彼らに相対したときの間桐慎二なんですよ。
それを踏まえたうえでこのドラマCDを考えてみると、「見知らぬ誰か」にインタビューをさせるという形式を取ることにより、衛宮士郎や間桐桜、遠坂凛という彼が執着している=歪ませる要因がいない状態での、フラットな状態の間桐慎二を見せることに成功している。
驚いたのは終盤、「見知らぬ誰か」に慎二が灯りをつけてくれないかと頼む場面。「それじゃアンタも書けないだろう」と。
いたって普通の調子で、なんならちょっと気遣いすら感じさせる口調で、慎二が人に頼みごとをしてるんですよ。
間桐慎二が誰かにものを頼む、という要素で当然真っ先に思い浮かぶのが、士郎が聖杯戦争へと巻き込まれる要因となった例の弓道場の掃除。そう、慎二のクソでか感情を感じた人も多いであろう1章のあの場面です。原作では女の子に囲まれ嘲笑しながら、映画では厭味ったらしく侮蔑するように、しかしその表情は言葉とは裏腹で、衛宮士郎が快諾すると怒りのような感情を露わにするシーン。
その印象が強かったからこそドラマCDを聞いたときに、なんだ慎二普通に頼み事できるじゃないか!と思ったのです。
「見知らぬ誰か」というフィルターを通すことで、初めて我々は衛宮士郎や間桐桜、遠坂凛の前ではない間桐慎二を知ることができる。それがこのドラマCD「インタビュー 未推敲 掲載予定無し」の意義であり、この構造を考えた人に脱帽せざるを得ないです
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