思いついたこと

「物語」の悪いところ


現実の因果関係は相互に、また多岐に渡って複雑化している。図にすると樹形図、あるいは更に複雑であみだくじのようになっている。それを一本の線のようにしようとなると現実を歪めることになる。絡まった糸はほどいて一本の線にすることができるけど、タオルを一本の線にしようと思ったら繊維を破くことになる。

自分のために書くことのメリット


ブログを他人目線ではなく、自分のために書くことにもメリットはある。人は他人のためであるより自分のためである方が頑張れる。気合入れて頑張るというか、やる気を出す必要さえ薄れる。必要以上のクオリティを自然に出せるのは、他人のためではなく自分のためという方が多いと思う。Google検索で出てくる商業ブログよりも、noteにある自分向けにしか思えない記事の方が、必要以上のクオリティがあったりする。これは矢印が他人向きか自分向きかということなんじゃないか。人間は好きな人のためなら自分に対してと同じくらい、あるいは自分に対して以上に努力できるかもしれないが、嫌いな人や普通な人に対して自分に対して以上のクオリティを出そうとは思わない。そこに対して何かのインセンティブが無い限りは。ブログは自分のことを好きな人、自分が好きな人以外も読む。今時報酬も期待し辛い。となると、他人のために書くより自分のために書いた方が高いクオリティも出せるし長続きするんじゃないか。

「反論を前提とした文章」


「反論を前提とした文章」を目にする。最近、対外離脱や明晰夢をどうにか見れないかという事に取り組んでいて、結果として瞑想と同じような事をやっていると思う。そうすると、心理学でいうところのシステム1からシステム2に思考法が変わる。茫洋でおぼろげな心持ちに変わってくる。交感神経優位か副交感神経優位かという事でもあるのかもしれない。システム1や交感神経優位の時に書かれたであろう文章を読んでいると「反論を前提とした文章」であると実感する。反論、反発を前提として書かれており、その一つの側面としては不完全、不十分に書かれている。本来自己の内部で行われる事を想定していたであろう弁証法を、外部化させていると言うべきか、あるいは外に投げ出しているとも言うべきか。もっと単純に、ただ悪目立ちしようというような、ある意味でマーケティングや広告の最適解としても辿り着きかねないような、目的で書かれることになる。
どこかのアニメ監督が世界の半分を怒らせろと、罪深き発言を悪びれることなく言い放ったようだが、結局受動的に情報を受け取っていれば、自分のところに辿り着く情報というのはそういった誰かを怒らせるような情報ばかりになる事は避けられない時代になった。海岸を歩いていて見かける漂流物は、情緒あるメッセージの入った瓶(ボトルメールとも言うらしい)ではなく、ゴミだ。海というのは今でも昔でも人間同士のネットワークそのものである。ネットというより距離の近い高度なネットワークも、当然そこで流れつく漂流物はゴミばかりになっていくという事を、前提として受け止めておく必要がある。漂流物はゴミばかりというのは人間同士のネットワークの到達点のある意味で宿命的なある意味での原則的なものの一つなのかもしれない。

スマホ時代の今だからこそ一人でいるのは勿体ない


そういう事で言うと、一人でいる時間が長い人ほど、システム1的な、交感神経優位と言える一番ヤバい状態になるのかもしれない。一人でいる時間はみんなスマホ触っちゃうから。他人といれば自然にスマホから、つまりネットから距離を置くことになる。昔は一人でいる時ほど、静かで落ち着いた状態になる事ができたが、それは昔の話で、スマホがある今の世の中だと一人でいればいるほど、ネットという海からの漂流物としてのゴミを浴びやすくなる。意識して瞑想かなにかに取り組まない限り、物理的に一人の状態というのはとても勿体ない、被虐的な時間になる。

→追記 2024-07-16
人と人とが密集した際、最も憂慮すべき事は感染症の蔓延である
ウェブの父と呼ばれる科学者が「Twitterに愛を一滴垂らしても朽ちていくが、憎しみを一滴垂らすと増殖している」と発言したようだが、Twitterを中心としたネットワークにおいて、憎しみや悪意というのは、感染症のようなものだ
ゴミを押し付け合う場所にしか居場所を持たないというのは勿体無い生き方だと言える

話題の選び方


和佐木坂ラジオ181に書いたコメントから引用

途中で出てくる話題の選び方としては答えの出せないお題、けど答えを出すことに意義があるお題というのは盛り上がるし広げられる話題かもしれませんね

例えば「アメリカの首都はどこか」という話題はすぐに終わってしまうけど、「アメリカの首都はワシントンDC以外だとどこが良いか」という話題はいくらでも広げられるし続けられる

目安としてはディベートのお題に採用されてもちゃんと機能する話題をその状況に応じてぽんぽん出していけると会話が弾むし長続きするかもしれない

ディベートというと議論ぽいイメージになるけど、「あそこも良いけどここも良いよね」みたいな会話のスタイルでも良いわけだから

内面も脚色


アニメってキャラクターの見た目がファンタジーであるようにキャラクターの内面も脚色されてると思った方が良い
ピカチュウが現実にいないように、多くのキャラクターと同じ内面を持つ人間もいない

卑近な陰謀論の面白さ


なんか陰謀論によってはレプティリアンがどうのとか、ロスチャイルド、ロックフェラーを超えるシェルバーン家がどうのとか、なんかそういう遙か高みの検証しようの無い話もあるけど、俺はそういうのにあんまり興味が持てない
どっちかと言うとボトムアップ型というか、自分の身近なところや中間的なところから徐々に上に肉迫していくタイプの陰謀論の方が面白い
ぶっ飛んだ陰謀論ってスケールはデカいんだけど緊張感が無いんだよね
余りにも離れ過ぎてて
例えば江戸時代の人が「日本で一番偉いのは天皇」とか言われてもピンと来ないと思うけど、「うちの村の村長もうちのお殿様には頭が上がらなくて、そのお殿様も実は大名という人に仕えてて、その大名を束ねる将軍って人がいて、うちのお殿様も大名も将軍もみんな源氏で、その源氏を辿っていくと…」みたいに話した方が実感しやすい
天皇や幕府という情報だけ与えられてその周辺情報だけをひたすら細かく説明されても知的な好奇心持てないでしょ
それってただのゴシップみたいなもんだし

街と創造と破壊


(5chに書いたレスからのコピペ)
今は創造より破壊の方がコストが高くつくから、東京は一番コスパが悪い街になっている

地方に豪華なマンションとかが出来るのもそれが理由で、タワマンとか造るコストは大した事無くて、国立民みたいのが反対するから造れないだけ

途上国の主要都市が発展してるように見えるのもそれが理由
東京がショボイのは建築費を捻出できないからではなく取り壊せる建物が少ないから

(ディストピアというレトリック

『エージェントアプローチ人工知能』という計算機科学の教科書によると、「SF作家は筋書きを面白くするためにディストピア的未来を好む傾向にある」という
このことは私自身の体感にも合致する
人は悲観性やバッドエンド、ディストピア性そのものに対して無根拠の説得力を感じるようにできている
例えば、)

リベラルとは


リベラルというと、漠然と弱者に対する優しさだとかあるいは進歩に対する積極性によって捉えられているが、共産主義にマルクスという具体的な提唱者がいるように、リベラルにもロールズという代表的な提唱者がいて、彼の言にあたれば、客観的とは言わずとも主観的にはその輪郭を追い、はっきりとした定義付けを行うことが可能である
リベラルの特性としては、1つにポジショントークを政治や社会の議論から廃するという点が挙げられる
彼は、自身の政治哲学を提示する上で、無知のヴェールという彼の作った思考実験上の道具を紹介する
それはつまり、どうやって良い社会を作るかという手段では無く、そもそも良い社会とは何かという彼が着目した根本の部分における議論において、良い社会について考える上では、自身の立場について一切の知識を伴わない無知な状態で思考し、議論に参加すべきだという事である
つまり、外的に匿名であるだけでなく、内的にも匿名であるべきだと、自身の今の社会的立場から全く解き放たれた状態で(つまり自由に)考えられた社会こそが、真の正しき社会であると考えたのだ
自分はこの人だったかもしれない、と、誰に対しても思う思考態度
それはある意味で思考”実験”上に限定されたものではなく(思考実験を行うための一時的な実験室に閉ざされたものではなく)、より気質的な部分での思考態度やただ素朴な共感性とも結びついたものだと言えるかもしれない
より抽象化して言えば、保守の主張が自身のポジションに明確に根ざされているのに対し、リベラルというのはある意味で自他の境界が曖昧とも言えるのである
その曖昧性、それはつまり共感性の裏返しとも言えるような観念が、果たして気質としてのものなのか、政治哲学的にインストールされたアプリのようなものに過ぎないのか、その点に関して結論付けることができないが、とにかくリベラルというのはそのような傾向があって、だからそれは時に弱者に対する優しさへとも当然繋がるものだし、逆に意外なところでは強者に対する嫉妬心の少なさから来る寛容性にも繋がるかもしれない
その点において、理論的に強者を全体最適のための阻害要因と見なして否定した共産主義とは異なるのである

小説の漫画に対する超越性


なぜ小説は高尚とされ、漫画はいつまで経っても高尚とは見なされないのか
それは小説は混じり気なく文字のみで表現されているからだ
これ以上分割できない形で、つまり表現の最小単位としての地位を収めているのだ
一方で、漫画はなにかとなにかの組み合わせであり、組み合わせである以上は、より異なる組み合わせと比較され、また凌駕されてしまう
文字という単一の情報から成る小説とは決定的に異なるのである

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