「オタク」の悪いところリスト

・オタクは答え合わせできる対象にしか興味を持たない。

オタクは答え合わせできる対象にしか興味を持たない。漫画の伏線は答え合わせ可能だが、純文学の特色のない表現の感じ方、受け止め方には答えが無い。ある純文学のあるページの素朴なある一文に対して、例えそれが100万部売れていたとしても、それに対する見方は人によって異なる。知恵袋で「この小説のこの文章についてどう思いますか?」と質問しても回答はバラバラ。となると、自分で何かを見出さなくてはいけない。正解が存在しないから。誰かと話題を共有して盛り上がって、という話ではなくなっていく。

・オタクは深みばかりで広がりが無い。

オタクは深みばかりで広がりが無い。ある対象の真のあり方を理解するために必要なものは、それが文化的産物であればあるほど、深みではなく広がりである。必要な知識は作品の内側ではなく外側にある。夏目漱石の作品の論評に必要なのは、『吾輩は猫である』をいかに熟読するか、という体験ではなく、その時代の社会的、政治的背景、あるいは夏目漱石という個人の背景を知ることにある。対して、オタクは何かの内側ばかり見ている。私が知恵袋でエヴァを批判したら、エヴァはこの時代のこの漫画から影響を受けいていて、このアニメの流れにあってとか、聞かれてもない事をベラベラと押し付けてくるオタクがいたのだが、この時にこのオタクの知識の狭さを実感した。長々と長文を書き連ねてきた割に、出てきた情報が漫画とアニメの話ばかりだった。延々と漫画とアニメの歴史を語り、現代アートがコンテクストという背景を重視するという事例に乗っ取るかのように、いかにエヴァにコンテクスト性という価値があるかという事を訴求してきた。そこで私が、エヴァの人類補完計画がSF小説の『幼年期の終わり』と類似している事、またそれらは共にニューエイジ思想の影響が考えられることを軽く指摘した。私個人としてはアニメにも漫画にもエヴァにもなんら興味が無い。しかし、日本のアニメ作品などに「人類を一個の集合意識のように統合して、自我を消失させる」というような最終目標を掲げるストーリーが頻出する事には気付いていた。漫画やアニメにだけしか興味が無い人々は、漫画やアニメの文脈の中で互いに影響を与え合ってそのようなストーリーが使い回されていると考え、したり顔で、それは○○という作品のオマージュ、あるいはパクりだよと指摘するのだろうが、より本質を求め、幅広い知識を求める人々であれば、その外側に表現の淵源を見つけることができる。結果として、エヴァという作品一つとっても、作品の深いファンよりも、幅広い好奇心を持つ人の方が、エヴァという作品の根幹にあたるだろうストーリーのより深い背景、つまり作品の制作者がニューエイジ思想に直接的に感化されていたか、あるいはその流れにある作品に感化されていたかなり高い可能性、を探り当てることができる。要するにエヴァの作品の制作者の内側に、ニューエイジ思想という本質の一つがあるのではないか、という可能性は、エヴァの内側や漫画やアニメの内側ばかり見ていても永久に見えてこないという事だ。
何かを真に理解する上で必要な情報は、内側ばかりではなく外側にもあるという事を、オタクは知らない。

オタクは知識が無い

だからオタクはその作品に興味も好感も持っていない非オタクに対してその知識においてすら負ける事がある。オタクが知識があるかのように誤解されるのは、知的好奇心と知識欲があるからではなく、多弁だからである。聞かれてもいない事を一方的に喋り続けるから、知識があるように見えているだけである。その場は、それについて喋るべき空間ではないから、競合は現れない。みんなで食事をしている時にバットの素振りをし始めたり、誰も応じてないのに一人でジャンケンをしたり、そういう事をすればとりあえずは負けないという事と似ている。いちいち「知ってる」という事さえ面倒だから指摘を受けないだけで、オタクはそもそも知識すら欠けている。


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