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「快」を大切にしていい

まずは大前提として「快」を大切にすること。
欲求を素直に、否定することなく満たしてあげることが幸せへの近道。
仏教には「涅槃」と呼ばれる究極の心の安らぎを得る境地があるが、それを皆に「目指せ」となると宗教になってしまう。

欲求は人それぞれ。
「快」を感じること、例えば「人の上に立ちたい」「人より稼ぎたい」などでも良い。
欲求をエネルギーに変えて「快」を感じる生き方は合理的。
ただ、「快」を求める過程で、焦りや不安を感じ「不快」が少しでも入り込むようなら、その欲求は手放すべき。

心の反応は心がけ次第で強くも弱くもなる。
普段から全身の感覚、足の裏の感覚、腹部の動きなど、意識を巡らせていると退屈しない。
心はいつも新鮮でなのである。

「快」を増やし「不快」を減らしながら快適な人生を作っていくと良い。



他人からの評価を追いかけない

人の目が気になってしまうのは「承認欲」が原因。
人は周りの人間に対して「この人は好きでいてくれる」「高く評価してくれる」と信じられれば安心できる。
要するに好意的な評価が欲しいがために、周りの目を気にしてしまう。

①認められたい
②反応して「どうみられているのだろう」と妄想する。
③ちょっとした言動からも妄想に拍車がかかり「思い込み」につながる。

こういった流れを避けるためにも普段から「全て妄想に過ぎない」とはっきり自覚すること。

妄想に際限はない。
脳は見聞きした情報を「反応の記憶」として取り込んでいるため、それらを勝手に複合させて「みたことのない妄想」を作り上げることもある、寝ている時に見る「夢」が良い例。

心を救う多くの世界では「確かめようのない」内容を真理として説くが、ブッダにはそれがない。

ブッダは徹底して合理的な態度をとっている。

世界は永遠か、終焉があるか、有限か、無限か。
霊魂は存在するか、しないか。
死後の世界があるか。ないか。
私はこれらのことを確かなものとして説かない。
何故ならそれは、心の清浄・安らぎという目的にかなわず、欲望ゆえの苦痛を超える修行として、役に立たないからである。
私はこれらの目的にかない、役立つものを確かなものとして説く。
それは、生きることは苦しみを伴う
それには原因があるが、苦しみは消す事ができる。
その為の方法があるということー四聖諦ーである。
ー弟子マルキャプッタへの教え マッジマ・ニカーヤ


確かめようのないこと「妄想」は追いかけないこと。
ただ「人生の目的」をハッキリとさせて、そこに向かう過程にある苦しみを取り除いていけば良い。


◎今日の呟き
宗教がダメだというわけではありませんが、親が信じていた新興宗教に振り回されて、自分の本心からやりたいことや欲望など押さえ込んで生きていた私からしたら、
抽象的な、本当に確かめようのないことを真理として説いてる宗教は全く合いませんでした。
今は無宗教ですが(強いて言えばお天道様が神様だと思ってます。)お陰で小さな事でクヨクヨしなくなりました。
実証できない真理を、一切疑わず信じれる人にとっては良いのでしょうが、大体が如何様にも受け取れる結果に対して「それは神様が支えてくれたんだよ」とか「貴方だけの力じゃない」なんて言います。
都合の良いように解釈すれば苦痛を苦痛として見なくて済むようになりますが、それは人生を諦めた人の「逃げ」でしかないと、今では思います。
日本は法治国家。理不尽な相手には相手を法で裁くこともできる。言い負かす智識や脳の回転の速さがあるなら口で丸め込めば良い。
少なくとも私は、自分が努力できないことを棚に上げて「神様に祈願すれば」とかなんとか言って、都合の良い妄想で事実を捻じ曲げて一人納得したり、努力して金持ちになった人を陰で妬んでるのに「普通が一番」なんて最もらしく周りに勧めるような人間にはなりたくない。

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