哲学って学ばなくても生きていけるよね…

※上記の本を参照
※前回の続き。今回で読了。


ハイデガー(1889〜1976年・ドイツ出身)

・そもそも、人間がつくった『存在する』という言葉の意味が何なのかを知るべきだと説く。

ハイデガーはフッサールの門徒。
人を惹きつける話術とカリスマ性があった。

ハイデガーの考え方は新しいものだったが、結果残された著書は『存在の真理について』というより、深堀しすぎた為か、どちらかというと『人生論』になってしまっており『存在なき存在論』と揶揄されてしまっている。


ソシュール(1857〜1913年・スイス出身)

・言語学者
・大学の講義で生徒相手に発表するも、論文として学会に提出する前に亡くなってしまう。たまたまその時に講義を受けた生徒達有志が、講義中記録した情報を寄せ集め、今回の説を紡ぎだした。
・『世界は区別から成り立ってる』と説いた。

河原の石はさまざまな形をしているが、区別する必要がないからどんな形をしていたとしても『石』と認識する。

果物にも様々あるが、全てを『果物』と一括りにしないのは人間にとって区別する必要があったから。

国が違うだけでも存在の定義は変わる。文化の問題だと思うが、日本では『姉』『妹』『兄』『弟』を分けて呼ぶが、年功序列の考えの無いアメリカでは『brother』『sister』とだけで、上と下の区別がない。
日本で区別される蝶と蛾は、フランスではいずれもも『papillon』と称される。

要するに、対象物が『区別するに足る存在』であった場合に存在を認識するのではないかということ。

もっと分かりやすく言えば、地球がビー玉程の大きさで手のひらで転がせるほどの巨人がいたとする。

巨人からすれば、丸く、全体的に青みがかっていて、注意深く見れば何やら中で何かが蠢いているように見える丸い玉でしかない。
その玉(地球)が、その巨人の興味の対象にならなければ、顕微鏡で見ないと確認できないくらい小さな人類と動物、海や山などすら区別する必要がない。
区別される事なく、その巨人が亡くなってしまったのなら、その巨人の世界に、僕たち人間は『存在しなかった』という事になる。

よって『区別に足る存在』『区別すべき存在』として目の前にあるコトやモノが『存在の真理』である。…と説きたかったんだと私は解釈しました。


これにて「史上最強の哲学入門」読了。

◎今日の呟き
本書を見て、いろんなものの考え方があるだなと思いました(小学生の感想文かよっ!笑)。
やはり僕の中ではニーチェの教えに感動を覚えました。
ただ、こんなにわかりやすく書いてくれてる本でも読むのに応えました。
だから純粋な原書を読む気にはなれません(笑)
この本の著者である飲茶さんがニーチェの哲学についての本を別に出版されてるので、機会があればそちらを読んでみたいと思っています。



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