なんでもないかもしれない。
note を書くとき、iPadを使用して画面左1/4を音楽を、右3/4をnoteのアプリを開くのが、なんとなく落ち着きます。
いま「pour moi」という名の自作のプレイリストをシャッフル再生をしています。
「pour moi」はフランス語でだいたいですが “ わたしのために ” という意味を含んでいて、中はほぼ女性アーティストが多いです。とくに上白石萌音さんの歌声が好きで、ミュージカルの時の歌唱と異なり、柔らかく包み込んでくれます👀
妹のadieuさん(上白石萌歌さんの歌手名義)は儚い雰囲気があり、こちらもよく聴きます🎧
、、、さあて、前置きはここまでにしておいて、
今回ふと最近感じることを書こうかなと思います。
(簡単にいうとなんだかなぁ〜と思っていることを指します。)
ここ2•3年、いやもっと前からやたら
SNSにおいて「いいね」の数だったり 「バズる」「映える」という言葉が当たり前に聞こえるようになりました。
インフルエンサーなどと呼ばれる人に関してはなにも感じないし、考えようとしないのですが、
個人的に「読書垢」なるものについて疑問があって、どうして読んだor読んでいる最中の書物を コーヒーや可愛らしい小物、それっぽい手帳(ノートなのかもですが)とともに写すのでしょうか。
その作品についての感想を書くのに、言葉を選ばずにいうと「綺麗に撮る必要ってなに?」なんですね。
わたしも仕事では見栄えよく見えるように撮ることがあるので、気持ちは分からんでもないです。
ただ読書って簡単に言語化できるものではないと思っていて、過程として
作品を読む→知らない/分からない語句を調べる→作家のバックグラウンドをみる→読み返してみる
といったことをしてから、やっと作品を咀嚼することができると思います。
だから、# 読了 などつけている方は、確かに読書家で本好きだと思います。でもそれだけ。作品の世界の住人になったつもりで、真に理解はできていない方が殆どではないでしょうか。
(一度で完全に理解できたら研究者なんていらないですからね)
そして「いいね」を多く得ることによって承認欲求を満たして 「読書家のわたし」 に酔っている方も少なからずいるのではないでしょうか。
わたし自身書籍が売れることは大変良いことだと思っています。
しかし、その書籍の中には故事やオマージュが含まれる場合があります。
そんな時、知識があればこれの元ネタはあれだ!とわかりますが、知らなければスルーされます。知識は無駄なように見えて、多ければ多いほど活用の範囲が広がります。
そして前回の記事の最後に取り上げたアニメ「逃げ上手の若君」の放送が始まりました。アニメを娯楽としてみるのにも、先述のように知識があれば分かることが多いです。実際、日本の中世時代は貴族社会から武家社会になる動乱の最中に、さまざまな戦が起こります。その中である意味特殊な 「中先代」 という言葉を知っているか否かで、物語への認識は格段に違います。
主人公の北条時行は、教科書では名が少ないかもしれませんが、研究面では大変面白い人物です。
ま、それも調べるか調べないか。フィクションだと勝手に割り切るのか。
いろいろと楽しみ方は人それぞれですけれどね。
何事にも知っていて損をすることはないのです。
たぶんですが。