時間の亡骸と、自分を、掬い上げる
生来、自分は気を遣いすぎなんじゃないだろうか。
そのことに気づいたのは、
小学校高学年になってから。
中学、高校、大学では、気を遣っている
自分を客観視して嫌気がさして、
気を遣いすぎて心身共に疲弊している状況を
どうにかしたくて、
スタンスで生きてきた。
ところが、社会人となればそうもいかない。
何事も、スタートダッシュが肝心。
第一印象はよくしておきたい。
入社して早や一か月が経とうとしているが、
毎日笑顔で挨拶したり、
色々な人と話してみたり。
私が1人でいるときのテンションを
軽く20倍くらい
無理やり引き上げて生活している。
社会人として求められている、
いや、新入社員として「あるべき姿」
みたいなものを
「演じている」。
社会で生きる以上、
して当たり前のことなのかもしれない。
でも、私は元々内向的な性格なのだ。
それを無理やり
「元々外交的な性格ですよ?」
みたいな顔をしているわけだから、
山の中にある、
足を滑らせれば深い谷の底に落ちて助からないような、
綱渡りをしている気分だ。
もしくは、
にこにこした外交的な仮面を
はりつけているみたいだ。
信じられないくらい疲れる。
休日に身体が動かなくなる。
と同時に、自分を見失いかける。
「~したい」という気持ちが、
「~しなきゃ」に塗りつぶされていく。
こういうときの対処方法。
西粟倉のフィールドワークでもやった、
お気に入りのワーク、
「心が動いたものワーク」。
(ワークの詳細はこの記事に書いてます)
「写真を撮る」ことで、
自分を見つめなおす。
元々写真を撮るのは趣味だし、
写真を撮りながら、
歩きながら、
自分と対話することができる。
何より、自分の心が動いた瞬間。
その一瞬をとらえることで、
自分の輪郭を取り戻していく感じがする。
そんな訳で、休日にぼちぼち
写真を撮っている。
先日、写真を撮りに行ったときのこと。
歩きながら、ふと頭に浮かんできた。
「写真は時間という一瞬を切り取るもの」
「写真は時間の死体」
みたいな言葉をどこかで目にしたなあ。
その言葉を見た/思い出した瞬間、
写真がひどく繊細なものに
思えた、あの感覚を思い出す。
「写真」というものを「死」に
例える、その表現が好きだ。
確かに、音もしなければ呼吸もしない。
ぴたりと、その切り取られた時間が
そこに「ある」のだ。
風景、人、ものなど、
写真に残すことで、その瞬間が永遠になる。
常に流れゆくものを、切り取り、形にする。
なるほど、時というのは、常に「死んで」いるのだ。
私も、同じだ。
今noteに文章を打っている私も、
写真を撮っている私も、
常に亡骸になり続けている。
写真という「亡骸」を通して、
私もまた死んだ自分を見つめる。
「かしゃ」と音を立てて、
沈みゆく自分の心を、掬い上げる。
思考がいまいちまとまらないが、
とにかく写真を撮るのは楽しい。
そんなお話。