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祈りは十字架に、歌声は君に。

[きっともう、僕は神様に見棄てられてしまったのだ。]

喉が引き攣る。
気道が狭くなって、声が掠れる。

思う通りに歌えない。こんなの。

こんなの。綺麗じゃない。

遠くでミサの始まりを告げる鐘の音が響く。

聖歌隊の白いケープを片手に、坂を上がる。
この先には、確か切り立った崖があったはずだ。
今は唯、1人になりたかった。

14歳になってから変声期が始まり、前のように心地好く歌うことが出来なくなった。
高音は出ないし、低音だってそんなに出ない。声自体も安定しないし、今までどうやって声を出していたのか忘れてしまったかのように僕の喉は使い物にならなくなってしまった。

聖歌隊で歌うことが楽しかった。
朝の教会でステンドグラス越しに太陽の光を浴びながら白いケープを着て歌うと、まるで天使になったような心地だった。

僕は天使でいるために、一生懸命に神様に祈ったし、賛美歌もちゃんと祈りの気持ちを込めて歌っていた。なのに。

…本当はわかっていた。僕は男の子に生まれたから。どんなに頑張っても、「天使の歌声」と言われる期間は限られているって。
奇跡でも起きない限り、いつかは周りの大人みたいに声が低くなって嗄れた歌声しか出なくなる。
それでも、僕は天使でいたかった。

だって、歌っている間は自由で、平和だった。

祈っていれば、救われた。

パウロの言葉もヨハネの黙示録もユダの福音書も僕を救わなかったけれど、歌だけはどこまでも寛大だった。

理解はできるけれど意味の分からない聖書なんかよりずっとわかりやすくて。誰でも出来る。
そう、この僕でさえも。

だから歌が好きだった。

けれど、こんな蝙蝠みたいな汚い音しか出ない喉じゃもう歌えない。もう、歌には縋れない。

崖に着いたらもう一度だけ歌ってみようか。それで、声が出なければいっそ、身投げでもしてみようか。どうせ、出来やしないだろうけど。

そんなことを考えながら、崖に向かって歩く。
いつの間にか鐘は鳴り止んでいた。

もうすぐそこに崖が見えた。その時。

微かに、耳慣れた歌が聴こえた。

コーラスもない、掠れた歌声だ。でも、不思議と不快じゃなかった。

声の主に気が付かれないように、草むらにそっと身を潜め、崖を覗き見る。

そこには、天使、とは言い難い真っ黒い少年が立っていた。

艶やかな黒髪が海風に吹かれ揺れている。
その下で黒紫の瞳が光もなく遠くを見つめている。

黒いセーターに黒いスラックスが細身の身体に良く似合う。黒に相対し、白い肌とカットシャツがやけに目立っていた。

そんな、彼の白い喉から奏でられる賛美歌は、今まで聴いたどの歌よりも切なく、美しかった。

気が付けば、崖に来た目的も忘れて聴き入っていた。

それなのに。
彼は途中で歌うのを辞めてしまう。

悲しそうな顔で、胸元に手を当て。
祈りを紡ぐのが苦しいことであるかのように。
その姿もまた美しいと不謹慎ながら思った。

本当に、天使なんじゃないか。
せめてもう少しだけ近くで歌が聴きたい、近寄れば羽根が見えるんじゃないか、と一歩踏み出した時。

落ちていた折木を踏んでしまった。

──────パキリ。

くるり、と黒真珠のような瞳と目が合う。

─しまった…。

何と言われるだろう。
盗み聴きなんて汚い?
コソコソ隠れて気味が悪い?

あぁ。あの綺麗な声で罵られるのも悪くは無いな、と場違いな考えを頭を振って払う。

いくら声が綺麗でもジョックス達のような罵詈雑言を浴びせられるのは勘弁だ。ましてや、今は落ち込んでいるのだ。

忘れていたが、1人になりたくてここに来たのだから、誰かに会うことは勿論、話しかけられるなんて以ての外なのだ。

悪いのは声もかけずに覗いていた自分だとしても。

思考の海に沈みかけていたトッドの耳に心地好い声が届く。

「…ねぇ。……何してるの。」

その声はこちらを非難しているわけでも、警戒しているわけでもなさそうだった。

「そんなとこいないで出てきたら?」

じっと、こちらを見つめる瞳に居た堪れなくなってそっと身体を草むらから滑らせて彼の前に出る。

『ご、ごめんなさい……盗み聴きするつもりは、なかったんだ…。ただ、1人になりたくて……
で、でも。先客がいたみたいだし、僕はこれで…』

「…………汚い声でしょ。賛美歌なんか似合わない…」

『 …へ?』

「俺の声。……カスカスで、綺麗な音なんて出やしない。欠陥品のオルガンみたいな…。」

ドレスのレースみたいな、漆黒の睫毛が彼の瞳を隠す。

あぁ、やっぱり、綺麗な人だ、と思った。

『い、いや。そうじゃなくて。僕は、あの…すごい上手だなって、なんて言うか、その…………男の子に言うことじゃないかもしれないけど、歌声も歌ってる姿もすごく綺麗だったから……見惚れちゃって……っ……って、ごめんなさい…。初めて会った相手に言うことじゃないですね…。』

捲し立てるように感想を伝える僕を見て彼の瞳がどんどん見開かれていき、その場に気まずい沈黙が落ちる。

「………」

『……あの、いいと思います。あなたの声、…僕は、好き…です。』

さっと赤みのさした頬に、安心する。
同じ、人間なんだ。

「……ありがと。嬉しい。」

柔らかく笑う顔がまた綺麗で、本当に、天使っているんじゃないかと思った。

それから僕らは自己紹介と賛美歌についての話を少しして、別れた。

名前と、好きな歌。それしか知らないけど、それで良かった。
次の約束もなかったけれど

あの崖に行けば会える。そう思っていた。

ラジオ以外に、僕を救ってくれるものがあるなんて、思ってもみなかった。

次の日も次の日も僕はあの崖に行った。けれど、あの子は居なかった。

『……偶然、だったのかな。会えたのは。』


[黒い天使にはそう簡単には会えないようだ。]


初めてあの子と会ってから一週間後のミサの日。

変わらず僕の喉は耳障りな音しか出さなかった。ミサのある教会とは反対方向にある崖に向かう。

小雨が降っていて、崖には濃い霧が立ち込めていた。

その霧の中、あの子が立っていた。

前と同じように黒い服。
小雨が頬にあたりまるで泣いているみたいだった。

僕は、声がかけられなくてただ呆然と見ているだけだった。

霧の中、ぼんやりと黒く丸い影が彼に近付いた。

黒猫だった。彼は愛し気に猫を撫でる。

その間も歌が止むことはなかった。

……あの子は、日曜日のミサの日だけ、あの崖に来ているんじゃないか。ということは僕と同じ学生なんだろうか。

…聖歌隊に入ればいいのに。あんなに上手なのに。あんなに綺麗な声なのに。

勿体ないな…。

次の週から僕は日曜日のミサの日に通う場所を変えた。

教会には行かず、あの崖に行っていた。

初めはじっと草むらに隠れて聴いているだけ。
ある程度の時間、歌を聴いたら

今来ました、という顔を装って話をしに出ていく。

彼は僕がいると歌うのを辞めてしまうから。

何度か話をするうちに彼のことを聞くことが出来た。

歳は僕より二つ年上の16歳であること。
聖歌隊を13歳の時に変声期でやめたこと。
それでも歌が好きで歌うことをやめたくなくて
日曜日のミサの日、教会に行けない代わりにこの崖に来ていること。
この崖の下には、昔の人が、この海で亡くなった人のために建てた十字架があること。
ここに居着いている黒猫と友達で
ポメグラネートラズベリーのロリポップが好きなこと。

僕らはいろんなことを話した。

僕も自分のことを話した。

14歳になったこと。
変声期がきて驚いていること。
ラジオが好きなこと。
学校でのこと。
ロリポップならコットンキャンディーとバブルガム味が好きなこと。
ピニャコラーダ味を舐めると少し、大人になったような気がすること。
飴は途中で噛み砕いてしまうこと。

でも、聖歌隊のことは話さなかった。

こんな汚い声、聴かれたくなかった。

彼は時折

「知ってるなら一緒に歌ってよ」と言ってきたが

僕は、『ラジオで聴いて耳馴染みがあるだけだ』と嘘をついていた。

彼に失望されたくなかった。

こんなに綺麗な声を持つ彼だから、僕の歌なんて聴いたらきっと離れていってしまう。そう思っていた。

数週間が経った頃、神父様に会った。
教会に来ないことを心配された。
変声期で喉の調子が良くないことを説明したら
聖歌隊は休んでいいと言われた。
その代わり、夕方から夜の礼拝が終わった時間、好きに練習に来ていいと言われた。

彼に会うのは日曜日のミサの日だけ。

だから、平日は夜の教会で賛美歌の練習をした。

この声にもだいぶ慣れてきて、どうしたら安定させることが出来るのか分かってきた。

でも、歌えるようになっていくにつれて、

聖歌隊に戻れる、という喜びより
彼に会えなくなる、という悲しみの方が僕の中では大きくなっていった。

学校が終わって、ジョックスのおやつの買い出しの後、僕は教会に向かっていた。

急げばまだ、練習するくらいの時間は取れるはず。

途中、彼が可愛がっている黒猫に会った。

『お前、崖の辺りだけがナワバリじゃないんだね。』

擦り寄ってくる猫を引き連れたまま教会についた。

『僕はここで歌の練習をするから。またね。』

開き戸を開けると、ステンドグラスが夕陽に照らされて聖堂を美しく煌めかせていた。

僕は祈った。

また歌えるようになるように。

天使になれるように。

それでも、到底、前のような歌声は出せないけれど
彼のように、歌えますように、と。
頭の中では祈っていた。

心のどこかでは、このまま聖歌隊を辞めることになったら

彼と同じように崖下の十字架に祈りを捧げようと思っていた。


[囀り方を忘れた駒鳥]

その次の日曜日。

僕は、いつものように

草むらから彼の歌を聴いた後、彼と話をしていた。

他愛のない話だが、彼と話すのは楽しかった。

カーストが、GOTHと言うだけあって

黒魔術だったり、オークションの話に詳しい彼は
僕の知らない世界を沢山教えてくれた。

「そう言えば…、トッドってやっぱり、賛美歌歌えたんだね。」

急に心拍数が上がる。

汗が冷えていくのがわかる。

さっと血の気が引いた。

「この間、教会で歌ってるの見ちゃって…」

…きっと、罰が当たったのだ。

頭では神様に祈りながら心では彼のことを考えていたから。

だからといって、これは酷い。

『……った…』

「え?」

あぁ、神様。こんなにも残酷なことがあるでしょうか。

『聴かれ、たくなかった……』

あんな、調律の合わないオルガンみたいな歌。

こんなことならあの時、あの黒猫が教会の傍にいた意味をもっとちゃんと考えればよかった。

「…でも、上手だったよ。俺なんかよりずっと、…ずっと綺麗だった。夕陽に照らされて歌うのを見た時、天使がいるのかと思ったくらい。」

歌うことが好きだった。

聖歌隊で歌うことが楽しかった。

祈りの言葉が心地好くて。

 

『…っでも!もう天使の歌声は出せない!どんなに頑張ってもっ…もう、前みたいな声は出ないんだ…もっと、もっと綺麗に歌えたんだ…!前は…。』

ステンドグラス越しの太陽の光を浴びるのが好きだった。

白いケープを着るのが好きだった。

天使になれたような気がしていた。

『……だから、もう…聖歌隊は辞めようって…。』

「ならさ。俺のために歌ってよ。」

『へ……?』

「俺、トッドの歌声好きだよ。いいじゃん、聖歌隊辞めちゃうならさ。俺のためだけに。
ね?」

初めて、彼の笑顔をちゃんと、見たような気がした。

僕に向けられた笑顔。

天使が、僕を見て、笑っている。

「ねぇ、知ってる?鳴けない駒鳥の話。一度、声を失った駒鳥は囀り方を忘れてしまうんだって。」

いつの間にか彼の足元には黒猫が擦り寄っている。

笑顔のまま彼は黒猫を撫ぜる。

「羽根をおられた天使は飛べない。

……トッドは、堕ちてきたこの場所で、俺だけの天使になってくれる?」

抱き上げられた黒猫が[ミャウ…]と鈴のような鳴き声で鳴いた。


[ミサの始まりを告げる鐘が鳴る]


「最近、あの子見ませんね。」
「あぁ、あのメガネの。」
「えぇ、とても綺麗なソプラノだったのに。」
「なんでも、変声期で声が出なくなってしまったんですって…」
「あら、可哀想に。」

僕は祈る。

どうか、神様の御加護を。
可哀想な羊に。
この崖下の十字架に祈る。

僕は歌う。

一匹の黒猫と

一人の黒い天使を観客に。

水は葡萄酒に。
石はパンに。

葡萄酒は血に。
パンは聖体に。

鳴けない駒鳥は羽根の手折られた天使に。

僕は、歌が好きだった。

賛美歌が好きだった。

身体に受ける風が心地好くて。

黒い少年が瞳を閉じて歌を聴いてくれるのが嬉しくて。

彼だけの天使で居られることが嬉しくて。

僕は、今日も歌う。





Who killed Cock Robin?

"誰が駒鳥殺したの?"

Who'll sing a psalm?

"誰が歌うの?賛美歌を"

I'll sing a psalm……

"私が歌おう、賛美歌を"

All the birds of the air

"空の上から 全ての鳥が"

fell a-sighing and a-sobbing,

"ため息ついたり すすり泣いたり"

when they heard the bell toll

"みんなが聞いた 鳴り出す鐘を"

for poor Cock Robin.

「可哀想な"駒鳥"─トッド─の お葬式の鐘を」


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