同居人が寝込んで、当たり前を考えた話。
一緒に暮らしている同居人が、先日、体調を崩して寝込んだ。
代わりに、不器用ながらわたしが、家事を一手にこなそうとするのだが、細かい物の場所が分からなくて何度か手が止まってしまった。
例えば、調味料の場所であったり、お皿をしまう場所だったり、お茶っ葉の場所であったりと、一つひとつは些細なことなのだけれど、
いつも同居人がそっとやってくれていたんだなと、そこかしこに同居人の何も言わないやさしさを感じてしまうのである。
いつもいるリビングや、廊下や、洗面所に同居人の気配はあるのに(なんだかそんな歌があった気がする)、本人は部屋で寝込んでいる。
わたしが変化に弱い性格だからだろうか。
何やらいつもと違う事が起こっているなと身体が勝手に判断し、自分の家なのにどっと不安に駆られてしまった。
特に用事はないのに、何度も同居人の様子を見に行っては、存在を確かめることでほっとしていた。
幸いにも、2日程で同居人は無事回復したので、
分からなかった物の場所を、一つひとつ聞いては覚えている。
当たり前と思っている存在や場所って、一度当たり前が崩れないと自分にとっての大事さを実感できないよな、と当たり前のことを今更思ってしまった。
わたしもいつの間にか誰かの当たり前として存在してるのかと思うと、ちょっとおもしろいかも知れない。