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マンチュー【旅で出会った犬たち:インド】

インドの南端ケララ州。ケララ、なんとなく楽しげな響き。現地の言葉マラヤラムで、「ヤシの木の大地」という意味だと聞いた時、やけにワクワクした。この土地がケララと呼ばれ始めた大昔から、ずっと変わらず陽気なヤシの木がニョキニョキと生えてるなんて。
私とKは州都トリヴァンドラムからビーチに向かうバスに乗った。
窓から尺取り虫みたいにヤシの木に登ってココナツを落としている人が見えた。

バスの中で話をしたインド人の若者に「これからビーチに行くなら、僕の友達の宿に来ないか?」と言われ、ひとまず部屋を見てみようかと彼について行き、たどり着いたのがヴィクトルおじさんの宿だった。ビーチから歩いてすぐのこじんまりした2階建。看板もないので一見普通の家にも見える。
ランニングと短パン姿でドアから出てきた太鼓腹の西洋人のおじさんに、「部屋を見たいんですがオーナーはどこですか?」と尋ねると、「私がオーナーだよ」と答えが返ってきた。
てっきりインド人が出てくると思った。見るからに素朴な雰囲気のおじさんは「君たちは日本人か、いいとも!おれは日本びいきなんだ、部屋は空いてるよ」と歓迎してくれ、私たちは2階の部屋に落ち着いた。バルコニーに立つと、地面から伸びた椰子の木にたわわに実っているココナツに手が届きそうだ。
おじさんはスウェーデン在住のポーランド人で、ここは彼が北欧の暗い冬の間にインドで夏を楽しむために建てた別荘のようなプライベートな宿だった。
私たちにもキッチンを自由に使わせてくれて、ご飯を一緒に食べたり、海で泳いだり、ギターを弾いたり、まるで親戚の家で夏休みを過ごしているような日々が続いた。
そして、宿には野良犬だけど自由に出入りを許された犬、マンチューがいた。白い雌犬マンチューはおじさんによくなついていて、小さな中庭でコーヒーを飲むおじさんの足元でよく昼寝していた。
ある日ポーランドのおいしいものの話題になり、私は「いつかそれ食べてみたいなあ」と言った。その夜、そろそろ寝ようかという時間に「今日話したポーランドのお菓子を作ってみたよ!」と、ふわっと粉砂糖をかけた甘い揚げ菓子をお皿にてんこ盛りにして、フーフー言いながら(おじさんはお腹が大きいので、階段登るのが一苦労)マンチューと一緒に部屋に持ってきてくれたこともあった。

おじさんは「次に君たちが来るときには、屋上に屋根をつけてルーフトップでみんながくつろげるスペースができているはずだよ」と言った。
そして1年後に再訪した時、本当にルーフトップは完成していて、夜な夜な人が集まってギターを弾いたり歌を歌ったり、賑やかな場所になっていた。
人がたくさん来るようになっても、おじさんとマンチューののんびりした生活は変わらない。ひんやりしたバルコニーに長々と寝そべって昼寝をしているマンチューは優雅でもあった。

宿に泊まっていたフィンランド人の若者が、「マンチューは素晴らしい犬だ!」と絶賛し、マンチューのための歌を作って、ギターを弾きながらマンチューに歌って聞かせているのは微笑ましい光景だった。
この時はまだマンチューの本当のすごさを私は知らなかった。

ある日、私たちの部屋のドアの隙間に、封筒が差し込まれていた。
いびつなひらがなで「しょうたいじょう」と書いてある。
中を開けてみると
しょうたい ディナーパーティ とりにくカレー ○月○日 18:00 

まるで子どもの怪文書みたい。
程なくそれはルーフトップによく遊びにきていたイギリス人のBenが書いたものだと分かった。彼は近所に素敵な家を借りて彼女と住み始めたところで、ルーフトップに集まる人たちを新居に招待してくれると言うのだった。
それにしてもまだスマホもない時代、どうやって日本語を?
Benは「招待状は君たちの言葉で書いた方が正式な感じだろ?」とイタズラっぽく笑った。
聞けばビーチにいた日本人旅行者を捕まえて、いくつか必要な日本語の単語を書いてもらい、そのメモをお手本にひらがなを書いたらしい。みんなヒマってなんて素晴らしいんだろう。
招待状の裏側に描かれた地図を頼りに、私とKは夕暮れの椰子の木の道を歩きBenの家へ出かけた。
パーティは、食前酒から始まり、スパイスの効いた肉を煮込んだメイン、コーヒーとシャーベットと続いて、彼が楽しそうにみんなにサーブして回る。「今日はうちのパーティを楽しんでもらうよ」という固い意志を感じた。私たちもご招待をひたすら楽しんで、お腹も心も満たされた。

Benの家を出たのは、もうかなり遅い時間になっていたので、私たちは大通りに出てオートリクシャを捕まえることにした。リクシャのヘッドライトだけが頼りの暗闇を走り抜け、ビーチの端っこにたどり着いた。
そうだ、忘れていた。夜になると野良犬たちが騒ぎ出すのだ。日中はヤシの木陰でダラダラしている犬たちは、夜になると目をらんらんと光らせて血の気盛んに荒ぶるものに変身する。昼と夜ではまるで別人格、「夜行性」とはこういうことだったのか。
1匹が私たちに気づいて吠え、砂浜を走ってくる。2匹3匹と続きだんだん集結してきた。
「おい、こいつらやっちまおうぜ」
先頭の犬がけしかけてくる。子分たちもニヤニヤしながら指をポキポキ鳴らして迫ってくる、そんな感じ。
あっというまに10頭くらいに囲まれてしまい、奴らは大勢になったことでさらに調子づき、盛大に吠え立てはじめた。
多勢に無勢、しかしKも私も必死に肩掛けバックをブンブン振り回し「寄るな!コラっ」と反撃を試みた。
その時、ふと前方からまっすぐこちらに走ってくる白い影が目に入った。
マンチューだった。
彼女は犬軍団に突進してきて、おおーん!と一声。
マンチューの周りにスペースができる。
とりなすように、犬たちを見回しながら
「このひとたちは私の友達だから、通してやって」。
奴らは「マンチューさんがおっしゃるんなら」と、急に尻尾を下ろしておとなしくなったのだ。

「さ、私についてきて」
マンチューは私たちに目配せし、道案内を買ってでた。
ビーチを抜ける間、また違うグループが近寄ってくると彼女は
「私の友達よ、手を出さないで」と牽制する。
「なんだ、マンチューの友達だってよ」と諦めて引き返していく犬たち。
彼女の後ろ姿に本当に後光が差しているように見えた。
マンチューは時々立ち止まり、私たちがちゃんとついてきているか振り返って確かめつつ、ビーチを抜け、路地を抜け、とうとう宿の門を無事にくぐった。
もう大丈夫!私は心臓がバクバクして、膝から崩れ落ちそうだった。
「ああマンチュー!助けてくれてありがとう!」
両手を広げて抱きしめようとする私の腕をスーッとすり抜け、
「夜は気をつけなさいよ、おやすみなさい」
彼女は闇夜の中に消えていった。

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